吉本隆明シンパの私としては
⇒はてなブックマーク - 『サンデー毎日』9月3日号
それを読んでないのでなんともいえないが、吉本翁らしいなとは思った。
アンパンマンさんらとは話がどうにも通じないので無用な軋轢はさけたいと思うのだが、率直に言って、たまたまぶくま経由で見たsynonymousさんの意見が、へぇ、と思った。批判ではないが、ちょっと。
2006年08月26日 synonymous 所詮戦場を知らぬ吉本ではあった。
また対応エントリコメント欄に。
そんな吉本に頼らなければ、左翼から身を守れなかった人たちがいた時代ってのもあったわけですね。
synonymous | 08.26.06 - 1:39 pm | #
synonymousさんが、吉本を「所詮戦場を知らぬ」とそのまま理解されているのだろうか。
この問題は、私は「戦場をよく知っていた」山本七平と「所詮戦場を知らぬ」吉本隆明の図としてときおり考えることがある。ただ、この問題は、戦場を知る知らないということではないように思える。
吉本が、左翼から身を守るために読まれたかについては、新左翼の歴史からそう読まれうることはある。が、大きく言えば、60年代安保の問題であり、70年代昼寝を始めた吉本はすでに左翼・新左翼ではなかった。この亀裂が決定的になったのは、80年代だった。
ところで引用の。
無色透明な、政治的意図があるわけではない民衆が小泉首相の靖国参拝をどう思うか、国民投票をしてみたらいいと思う。賛成票がやや多いんじゃないか、というのが僕の推測です。
は、吉本らしい。
吉本がここで何を言っているかは私はわかる。ただ、この放言のなかに吉本思想の根幹(大衆の原象)があるので議論となると難しい。
むしろ、「無色透明な、政治的意図があるわけではない」を抜きにして、単純に「靖国参拝をどう思うか、国民投票をしてみたら」という思考実験として受け止めたらいいだろう。
そこで現れるだろう結果をどう思想に組み込むか。
賛成票が多いから大衆の意見は賛成なのだということではないというあたりから、吉本思想が始まる。
ただ。
吉本隆明シンパの私としてはと書いてみたものの。
私は、この問題のそういうタッチーな部分にはあまり関心ない。私はもっとベタな西欧原理主義者になってしまったかな。
追記
⇒まだらボケになるのか。 南無の日記
ついでにこの『finalventの日記 - 吉本隆明シンパの私としては』については佃煮のネタを考えるようでよく意味がわからなかったよ。オレも読解力が無くなったのか、それとも10歳近く離れるとこうなのかとか思ったりした。
たぶん、南無さんは70年代から吉本を見ているから、あの時代の、単純にいえば新左翼解体後の左翼的な期待の背景に近いところで吉本を見ているのでは?と思います。
私が吉本を読み出したのは80年代の半ばです。コムデギャルソンとか着て、埴谷や大岡なんかとどろどろの戦いを始めたあたりです。高度資本主義っていいぜって言い出した吉本を評価したわけです。ただ、伏線的に親鸞研究は一貫しているけど(でもその一貫性がオウム評価に結実してまた物騒なことになっているけど)。
話はけっこう単純ですよ。
今でも吉本をぶっつぶしたいとする勢力がいるというだけです。吉本も耄碌しているからそれで自滅かとも見える。
でも、「じゃあ、靖国の是非を国民投票してごらんなさいな」というあたり、この爺、耄碌なんかしてないですよ、ということ。
思考実験でしかないけど、国民投票をすれば、是と出ますよ。あたりまえのことで、国家幻想が解体できてないのだからそうなる。それが課題なんだよということで、吉本は一貫しています。
ソフトスターリニズムは、靖国を是とした国民を偉そうに啓蒙し……そして失敗すればまさにスターリニズムの本性を出してくるだけですよ。
国家幻想の解体の理路がいかにあるべきかが問題で、そこは前衛的な知では解けない。大衆の無意識がそこを超えていく理路を見つめるだけのことです。
追記
「サンデー毎日」の吉本のインタビュー書き起こし読みました。
どってことない。
「靖国問題」なんて問題にしているのがおかしい。進歩派とかがそんなこと言ってるようじゃダメというのが、そーだよな、翁、と思った。
ってか、私はけっこう吉本主義者だな。あはは。