戦前の米国科学のトンデモについて少し
⇒極東ブログ: 若月俊一と佐久病院についてほんのわずか コメント欄
20060826の日記で、
> 今日の春秋はよく書けました。
> この騒動を題材に太平洋戦争前の米国の科学のトンデモぶりを検証したほうがいいかも。
こちらは、finalventさんらしくないかな?
と少し感じました。
「太平洋戦争前の米国の科学のトンデモぶり」
そのように評価(表現)せざるを得ない局面と、
そうでない局面とがあり、お題目により
○になったり×にになったりがあるような素材
ではないでしょうか。
断片的な話題でこの件に断定的な表現は如何でしょうか?
ええとですね。「断片的な話題でこの件に断定的な表現は如何でしょうか?」については軽い放言です、すみません、という感じです。○と×はあるでしょう。
ただ、広義に見たとき、それは×なんじゃないかという思いがあり、こういう放言になってしまいました。
どのあたりからレンジを取っていいのかわからないのだけど、恐慌後から太平洋戦争までの米国の科学の意味というのは、大筋でトンデモ的に展開していたのではないか。
どこがトンデモなのか?というのをどういう方法論で明らかにするかが問われるわけで、そうでないと、かなりの学がトンデモを歴史に抱えたことになるので。
基本的には、人間観と人間操作観に絞ればいいかと思います。
キーになるのは、移民の学者ではとも思っています。
典型例になるのか微妙なんですが。
⇒Wilhelm Reich - Wikipedia, the free encyclopedia
をどう米国が受け止めていのか。
テルミンなんかのほうが時代的には合う。
⇒Leon Theremin - Wikipedia, the free encyclopedia
しかし、こうしたことより、人間観と人間操作観がどのように、軍の科学となっていったかというあたりに関心があります。
参考⇒極東ブログ: スキナー(Burrhus Frederic Skinner)と日本国憲法