国を愛するということ
⇒H-Yamaguchi.net: 「愛国者」の3つの責務
ちょっと意外な感じがした。もしかして「社会」と「国家」の違いをわかってないのかもしれないなという印象を持った。
あるいは、共同体と国家の違いというべきか。あるいは、そんなものはないよということなのか。あるいは、啓蒙の文章を書くとき掬われる典型的なことというだけなのか。
共同体は直接的な愛情なり信頼感なりで結ばれる。ルールであっても会衆として向き合うことができる。国家はその延長にはない。国家はまず権力として現れる。その権力をどのように公的な正義とするかが問われる。民主主義とは会衆の原理ではなく、国家の原理なのだ。多数決は会衆の手法の一つだが、国家はそれで動かされてはならないために各種の制度を持つ。くどいがこの権力を公的に正義とするために押さえ込む制度を作り上げることが民主主義の本質。
その意味で、すこし言い過ぎだが、国家とは法であり、それは法の西洋的なイメージであるよにブラインドした女神(テミス)が計りと剣を持つ。
ではその国家=正義を支える、根拠付けるものは何か?
端的に、自由、平等、そして博愛、なのだが、自由と平等はまさにそれが国家の原理性から来ている。そしてそれは、国家を個別の国家とはしない。個別の国家とするのは、博愛、なのだが、これはほぼ誤訳。友愛というか、fraternity 。つまり、これは極論すると、秘密結社的なアソシエーションである(このあたりあまり雑駁に言うのもなんだが柄谷行人はアソシエーションの背後にあるマルクスらのfraternityへの洞察を理解していないように思える)。ただ、秘密結社とすれば一見共同体のように見える。あるいは、共同体と秘密結社の差異が国家の本質を暗示しているかもしれない。さらに余談でいえば、共産主義における前衛とは秘密結社であり、その意味で、自由、平等、そして博愛、の変奏と言えないこともない。このあたりは、頭悪いわりにレーニンは直感的よくわかっていた。
あ、社会= societyとすると英語のsocietyはほとんど秘密結社に近い意味になるので、そのあたりは議論が複雑になるかもしれない。ただ、この意味での社会=societyは日本人にはほとんど理解されていないと思う。というか、このsocietyの訳語は「協会」とすべき(一律にそう訳せではないが)。
で。興として。「愛国者」の3つの責務。
- 見知らぬ同胞を愛し公共物を守ること
- 国家の権力を公義たらしめるべく見守ること
- 他国と異ならしめた歴史と文化を愛すること
追記
この問題はもう少しやっかいかもしれないので、展開はあるかも。