日記の中の自分と歳

 言ってることが矛盾するけど、この日記を書き続けてきたことで老いたことはあると思う。言葉使いもなんか年寄り臭いなと思う。年寄りくさい文章を書いているというかそれが自然であるように馴染ませようとしている、自分の意識に対して。
 私には文才はないので、今の若い人の言葉の真似はできないし、今の若い人の感性を真似ることもできない。ただ、自分の若い日の言葉と若い日の感性にはあまり変化はない。そのあたりをただそのまま表出しているのかもしれないが、意識としては、あまりそうしていない。少しずつ歳の間合いを取っている気がする。
 若さというのは、しかし、若い言葉が使えることかもしれない。そして、私が若くないというのはその言葉が使えないということでもあるのだろう。言葉はたぶん現実の肉体に近いように、私の肉体は老いている分、若い人のような恋愛とかセックスとかはできない。そうしたいとも思わないが。
 以上と矛盾するのだが、日記のなかで私は、誰もがそうなのだろうが、どうしても擬似的になる。偽物というか作り物というか。ネットが匿名といった議論はうんざりだが、私はネットの関わりにおいて、実は匿名であったことはない。それはネットの時代的な位置の違いかもしれない。今のネットカルチャーとかつてのそれとは違っていた。友情とか仕事とかにも直結していた。
 今はそういうのはない。そういうのを持ちたいとは思わない。そういうのが若さではないと言われればそうかもしれない。そういうものの持つ痛みみたいのにもう耐えられないだろうなと思う。そうした意味で、実名とかいろいろそのスジで関わりたくはない。
 ネットは仕事ではないし、もうちょっと言うと趣味でもないかもしれない。ではなぜ?と自問するのがわからないし、わかるより今は今のままでしかない。
 たぶん、ということもなく、存命ならあと5年で私は決定的に変化しなくてはならなくなるだろうし、その時は、心も玉手箱を開けたように老いるのだろうなとも思う。その時、もし私を覚えている人がいたら驚くかもしれないし、かつての私を知っている人がいたら(5人くらいはいる)、今の私こそが奇妙な迂回のようでもあるだろう。