ぶくまの終わりというわけではないが

 ぶくまのクラスタリングのようなものが進んでいる気がする。別に嫉んでいうわけではないが、GIGAZINEのぶくまになんの意味があるのか……あるとすると20ぶくま以上のエントリはよくできましたというくらいなものだろう。とすれば、これは別のフェーズからは5ぶくまくらいでいいのではないか。同じことがフェミとか、ぶくまを話題にするぶくまとかもそう。
 で、ぶくまから見えないのが、一部の若サヨ系とか松永さん追求派とか、別に見える必要はないのだろうが、見えないでいることで閉じていく傾向がある。閉じていくことで失われるものがあるようにも思うだが、率直に言ってよくわからない。
 別の言い方をすると。
 ぶくまは現在、数、として抽象化されているのだが、特定ブログのぶくま者には傾向が見られるのだろうから、そのあたりので、デフォ部分を計数的に軽減するぶくま評価みたいなの処理はできないものだろうか。
 あと。
 1ぶくまみたいのに、実は、とても重要なものがあるが、現状では、1ぶくまのみで終わることがある。このあたりについては、実質、いわゆるアルファークリッパーがどう動くかによるのだが、クリッパー自体の関心の偏差とそれに影響を受けるクラスタがあるので、それほどうまくは動いていない。
 なにかうまいメカニズムはないものかと思う。うまいというのは、ぶくまの数だけではなく、特定のぶくまから話題の公的性というか議論的話題性を抜き出すしくみはできないか。
 繰り返し的だが。
 RSSを整備していけば、というか、ある読者にとって質のいいブロガーをピックアップしていけばけっこういい情報や意見が集まる……というのは、いい。だが、そのとき、その読者は、ブログの総体知みたいなもの呼びかけは得られない。その呼びかけが、公的というか、という部分だ。