転生の感覚

 あまりマジな話ではないし、オカルトとかそういうことではない。むしろ、こうした感覚は、けっこう多くの人にごく普通にあるのではないかと思うし、前近代や特定の文化のなかではごく普通の感覚ですらあるんだろうと思う。
 転生の感覚。
 自分が転生してまたこの世に生まれてきたなという変な感覚。
 それが実体であるとは考えないが、無意識のなかのある構成ではあるのだろう。だから、催眠術とかで記憶遡及して生年からマイナスへ向けて思い出すということが、可能ではあるのだろう。
 私は今年49歳。来年は50歳。半世紀生きた。生きてみて、この時間はなんだったのかというと、よくわからない。これは私に問題があるのかもしれないが、4歳くらいからの記憶がかなりアキュートに存在している。それでいて青年期のつらいことや対人関係はごそごそと記憶の欠落がある。記憶とは私の今の人格の構成そのものなのだろう。
 私は45年くらいを記憶で遡及できる。その記憶のある意識の運動のようななかに、歴史の時間をシフトさせるような、世界の側の変容を少し感じ取ることができる。
 と、その感覚を逆に向けると、45年後の私はかなり確かに、もう存在しない。私は、近未来に永遠に存在しなくなる。その永遠に加えれば、この今はまさに微塵のごときものだ。それより、私のなかに蓄えられた時間の感覚とはその無に向き合っていったいなんなのであろう。
 転生というのは、身体においては、ごく普通のことで、私は父祖の身体の転生である。DNAがとかアホなことは言わない、が、私の身体のなかに父祖が生きていることを歳とともにくっきり感じられるようになる。その身体は、無意識と境界を持たずに接続している。
 私の身体と無意識はなんどもなんども死を経験してきたのだろう。私は老いを恐れるが、私の身体と無意識にしてみれば、またかのできごとでしかない。
 この身体の記憶と、私のなかの歴史意識の感覚に、転生の感覚が、不随している。
 私がだれかであったというのは論理矛盾ではあるし、それはありえない。だが、同時に、それが矛盾なく思えるある意識のありかたがある。
 私は転生しているという感覚だ。
 その感覚をイメージのなかでふくらませると、当然ながら、歴史物語のようなイメージとなるだが、その歴史の空間が、まさに、私の記憶が人格の構成であるかのように、私の意識そのもののような構成と類似しているのに気が付く。
 おりに触れていろいろ思うのだが、そして、これは歴史物語のフィクションとして言うのだが(様式として)、「私」は奈良時代の後期に日本に居た。
 なぜそのようなイメージがあるのか?
 一つには、たぶん、日本人であるということの原型のフィクションがその時代に成立したからではないのか。そして、そのフィクションに決定的な疑念を抱いていることは、その歴史証言的な転生の意識からの反照なのだろう。
 短絡してしまえば、民族の意識性そもののが、転生の感覚(無意識のなか)に根ざしているのではないか。私たちは、大半は生殖を契機として、日本人という民族のなかに、「私」の死後も生きていたいと願ってしまう。
 逆に、で、あればこそ、「私」を救い出すのは、私を本当の無のなかに帰しめることを可能にするのは、孤独であろうし、絶望であろう。ニルバーナ、涅槃というものの救済の意味は、そうした孤独と絶望を示唆していると、あまり宗教者たちは語らないが。まあ、それはある奇っ怪な思想というか……。