歴史と記憶

 ⇒古川 享 ブログ: 私の知っているビルゲイツ、その18
 面白い。それはさておき。
 読みながら、あの時代を思い出す。1986年というと私にはつい昨日のことのように思う。でも20年が過ぎた。
 時の過ぎ去るのは速いものだなと思うし、自分の人生のこの日々は無意味だったなとも思う。もちろん、それは物の見方にすぎないとも言える。
 このところ、ときたま思う、というか、このところと限らず思う。私の記憶のなかで東京オリンピックは比較的キリっとした記憶になっている。小学一年生でもあった。
 だが、ローマオリンピックの記憶はない。
 ⇒ローマオリンピック - Wikipedia
 うまく人に伝えられない微妙な感覚なのだが、あのころ東京オリンピックというのは、当然ながら、ローマオリンピックの次のオリンピックだった。人々も、そういう話(ローマオリンピックのこと)をよくしていた、というほどでもないが、していた。あのころテレビは普及していたといえば普及していた。あの頃というのは東京オリンピックのころだ。
 問題はローマオリンピックのころだが、1960年。まだそれほどテレビは普及していないはずだ。私が、4歳のころだ。
 私の父はエンジニアでもあり新しいもの好きだった。比較的早い時期にテレビを入れていたと思うが、なんせ価格的には無理だったのではないか。テレビは私が5歳ころではないか。
 すると普通の人はローマオリンピックを映像では見ていない。というかましてリアルではない。ラジオはあったはずだ。
 私とメディアのクレバスはこのあたりにある。
 東京オリンピックの次はメキシコオリンピック、いや。
 これ⇒メキシコシティオリンピック
 これもよく覚えている。
 さて。
 私は1957年生まれ。4つシフトすると、1961年生まれの人であろう。とすると、この人は、東京オリンピックの記憶はほぼないだろう。私がローマオリンピックについて思うのと似ているように。ただ、東京オリンピックは映像として反復された。
 うまく言えないのだが、このあたりに、歴史と映像の反復のあるハイパーリアルななにかがあると思う。
 福田和也の仕事について私はよくわからない。
 ⇒福田和也 - Wikipedia
 彼は1960年生まれ。だからというのではないが、私はこの人の語る歴史、あるリアリティの欠落を感じる。歴史と限らず、各種の主張のなかに。
 つまらぬ世代論を語るみたいだが、猫々先生こと小谷野敦にも似たような感じがする。
 ⇒小谷野敦 - Wikipedia
 もちろん、冗談で言うのだけど、君たちの記憶のなかに東京オリンピックは無でしょ、存在しないでしょ、でも、それはしかも不在ではなく、歴史に括弧付けしたような映像としての反復としてあるかのようにあるようなあり方をしているのでしょ? と、そんな感じがする。
 非難の意図はないし、学業はそれなりに立派なものかもしれない。ただ、ある存在とリアリティの感覚がひどく欠落しているように思える。
 おそらくは、以上書いたようにグラデーションの問題かもしれない。たとえば、1953年、1952年に生まれた人は、1957年生まれの私にある欠落を感じるだろう。
 と、ここで、思うのだが、私はそれが何が欠落しているかをうっすらと理解している。
 私の世代から、理念も正義も人間も、実は、ないのだ。存在しない。安田講堂は映像の向こうだ。
 三島由紀夫の死は私にはヴィヴィッドなものだったが、あれは映像の向こうにあった。
 うまく言えないのだが、私の世代から映像とリアリティの歴史の感性のある変化が起きているのだろうと思う。
 もっとも、このような歴史の差異は、山本七平(1921)と吉本隆明(1924)の差異にもある。山本にとって天皇とは英国女王のように、あ、いますね、というくらいなものだった。吉本にはそういうものではありえなかった。日本の歴史の空気が彼らの思春期の時代に大きく変わったのだが、そのひんやりした変化を山本は「昭和東京ものがたり〈2〉」に書いている。余談だが、私の父(1925)は山本に近い。
 山本七平山本夏彦たちの大正の向こうに明治があるのだが、その前に、関東大震災が大きなクレバスとなっている。その不在感覚を「昭和東京ものがたり〈1〉」では問いかけている。あえて言えば、それは社会と死体の必然的な匂いのような結合ではないだろうか。
 私がそして生きて、そうした歴史の断層のようなものはどこにあったか。パーソナルものも多い。1972年あたりにもある変化はあっただろう。だが、最大のものは、阪神大震災だろう。
 ⇒阪神・淡路大震災 - Wikipedia
 つまり、1995年。
 そしてこれはオウム事件でもあり、また、パソコンの時代でもあった。
 私の記憶の原型的な不在を4歳からとすれば、1991年生まれの子供に、1995年の出来事は不在として起立しているのだろう。
 1991年生まれの子供は今何歳か? 15歳。
 たぶん、15歳の子供には、日本の歴史のとてつもなく大きな不在が背負わされているのだろうと思うし、その不在がその存在に反照するものは、私がなんとなく思っているものより、はるかに大きいだろう。