国家論?

 現代の状況に合わせた国家論というのはどっかで展開されているのだろうか。
 よくわからん。
 ネットを見回して、たぶん、自分より若いんだろうなという人たちの国家論議論は、あまりマルクス・レーニン主義をふまえてないような気がする。そのあたりの奇妙な欠落感というのはなんだろ。
 ふと、本質論と機能論の差かとも思った。
 例えば、味噌とはなにか、味噌とはしょっぱいものである。って言えば、面白くない、ほぼ間違った機能論だが、国家とは暴力の独占体であるとかがそれと同じっていう感性は働かないのだろうか。ってか、レーニンとか読まれてないのだろう循環以下略。
 先日、国家論関係で、吉本隆明共同幻想論廣松渉幻想の共同体というのは、どういう差異があったのか、きちんとした考察というのも読んだことがないな。どっちも、ヘーゲリアンがベースでガチに展開しているので差異の抽出は難しいものでもないのだろうが。
 確か吉本隆明廣松渉をマッハ主義と批判してことがあったように思ったが、あれは大森荘蔵への批判からの援用だったか。
 ぼんやり昔のことを思い出すと、廣松渉は性の問題を扱ってなかったように思うので、そのあたりがよりヘーゲル的といえばそうなのだが、おかげでエンゲルスのような短絡に近いものにはなったのだろう。ヘーゲルってよく読むと意外に性=家族を捉えている人でもあると思うが、勉強しなおすのは難儀だな。
 ヘーゲルマルクスにも限らないのだが、彼らの時間概念、自然概念というのは、時間でもなければ自然でもないので、よりプロパーな歴史で見ていくとそれってありえないってばさではある。あれは、一種の説明装置としての時間・自然なんで、現実の歴史とかとはほとんど関係ない。ある意味で、言語起源論のようなパロディでもある。言語の起源とか言語の歴史とか考えるだけアホ臭いのだが、これらは西洋の文脈では説明装置として展開されているのであって、実際の歴史とか人類史とはまるで関係ない。
 ま、国家論に戻って、いわゆる概念的な遊びに近いような議論は率直に言って関心がもてないほど自分がぼんくらになりつつあるんで、例えば、韓国と北朝鮮民主主義人民共和国が同一の民族国家なのか、というケースの内部ですっきりモデル化された国家論とかが読んでみたい気がする。
追記・ヘーゲル学習2点
「ヘーゲル『精神現象学』入門講談社選書メチエ: 本」
「ヘーゲルの歴史意識講談社学術文庫: 本」