言うまでもなく…

 私もなぜ生んだのかと親を呪ったクチである。
 父親はそれに死をもって答え、母親は老いをもって答えた、と思う。答えがでるには、自分が老いと死の領域に少し足を突っ込むまでかかる。
 父は凡庸な人間だった。私や彼の友人たちの記憶から消えるとき、世界は彼を忘れるだろう。そうした何十億の人とまった同じように。そして、私もまた、同じように、凡庸に、そして、静かに、そう遠くもない時にこの世から消えていく。
 人というのはそうしてこの世に現れ、消えていくものである。
 気が付けば、なぜ生んだのかと呪えるほどのタマでもない。私とはなんという矮小なことかと思う。そういうものだ。
 苦しさというものは、自分がなにほどのものであるかのような錯覚をもたらすエネルギーを与える。しかし、それこそが、虚偽だ。ヨブは嘆く。

わたしの生まれた日は滅びうせよ。
『男の子が、胎にやどった』と言った夜も、
そのようになれ。
その日は暗くなるように。
神が上からこれを顧みられないように。
光がこれを照らさないように。
やみと暗黒がこれを取り戻すように。

なにゆえ、わたしは胎から出て、死なかったのか。
腹から出たとき息が絶えなかったのか。
なにゆえ、ひざがわたしを受けたのか。
なにゆえ、乳ぶさがあって、
わたしはそれを吸ったか。
そうしなかったならば、
わたしは伏して休み、眠っただろう。

なにゆえ、悩むものに光を賜い、
心苦しむ者に命を賜ったのか。

 ヨブの苦しみこそが彼を神の前に立たせる。賢しき者はみな神に廃され、神はただ、このヨブの前に立つ。神が神であるからなのだろう。そして、この神には救いというものはない。
 ヨブ記の結末の祝福は後代に追加された蛇足であり、この物語は、ヨブが苦悩のなかでただ、報われず死んで終わるのである。
 それだけなのか。彼は神に向き合う(神もまた彼に向き合う)。

わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが、
今わたしは目であなたを拝見します。
それでわたしはみずからを恨み、
ちり灰のなかで悔います。

 西洋人たちは、この絶望の物語になんとか解決を与えようとした。その最たるカール・グスタフ・ユンクは奇怪なことを述べてみた。マルチン・ブーバーはそうした西洋人たちをあざけるというのでもないが、ややものうげに、この物語の意味は神がヨブに応えたことにあると言った。
 なるほど、この物語は、救済ではなく、ヨブが神に向き合う(神がヨブに向き合う)という物語になっている。
 私たちは多くの苦悩と理不尽をかかえ、そして、跡形もなくこの世から消え去る。ホリエモンとかは死なないかもしれないし、少しくその名を歴史に残すかもしれない。中国人は歴史に名を残すことを永遠と引き替えたり、善行と来世を引き替えたりする。しかし、それは、所詮どうでもいいことだ。私は無となるのだ。ただ、その無は、ただの無なのか、神に向き合う無なのか、そこだけが、苦悩の意味に関わるのだろうとは思う。が、賢しき答えの出る問題でもない。
我と汝・対話



著者:マルティン・ブーバー

販売:岩波書店

価格:\630

媒体:文庫



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