三位一体…

 日本人は変な理解が広まってしまったが、本来は三位一体とはキリスト教のもっとも根幹となるもので、単純な話、異端か正統かは、三位一体論で決まる。
 私は、神学よりも歴史学的にキリスト教に接近したこともあり、三位一体が歴史的にまったキリスト教の初源に噛み合わない奇妙な異説ではないかと、長いこと考えていた。というだけでも異端的ではあっただろう。だが、復活をエヴァンジェリックのように考えることもないのだから、三位一体もある象徴として理解する程度でもいいだろうとは思っていた。
 このことをしかし、若い日にはよく悩んだが、当時、私はブルンナー(Emil Brunner)と塚本虎二の対話に関心を持った。塚本も、無教会派であったが、ニケヤ信条を遵守している、つまり、三位一体をそのまま受け入れているという点で、ブルンナーとの大きな差異はなかった。ブルンナーが彼にしかし何を見たのかは今ひとつよくわからない。バルトとの決裂の影のようなものだったのかもしれない。
 ブルンナーは三位一体論について、この問題は平信徒が頭を悩ます必要はないと言い切ったことに、私は奇妙な関心を持った。
 ところで、不思議なもので、私は、いつか、三位一体論をごく自然に受け入れている。どうしたのことなのかとも思う。いつこの転機があったのかといえば、ひとつ思い当たることがあるにせよ、それでも、この自然な受容とそれゆえに教父たちの深い知恵のようなものが不思議な恵みのようにも思える。
 私は、いわゆる宗教に向き合うありかたは、めちゃくちゃなものになってしまった。先日ふと父母未生以前本来面目を解いた(たぶん)のだが、三位一体はむしろ自然に解けた…公案ではないが…ように思う。そして、それらは、奇妙に同じことを言っているようにも思えた。そして、それらは言葉にはならない。体験とも違う。不思議なものだ。
 ふと、ぐぐったらこんなのがあった⇒ブルンナーとの出会い