私たちは一人ひとり死を一度だけ経験する…

 その時、死につつあるとき、死を一度だけ経験する。
 私たちはそれを恐れる。死の恐怖をたぶん覆うこと合理づけることはすべて虚偽だろうとは思う。
 しかし、私たちは死ななくてはならない。もちろん、生きなくてもならないのだろう。
 生のなかに死はきれいに埋め込められていて、誰も免れない。大樹ですら死ぬ。新しい生のために死があるというのは、ごく単純な真理だ、とするなら、われわれの存在の、死の経験のその中核に、死を受容すべき鍵のようものもまた埋め込まれているのではないかと思う。私が私の唯一の死を経験するということはその受容を経験することであり、そこまでの果てしない過程が苦悩と苦痛であっても、その経験のその最後の刹那は生と死を統合する受容としての歓喜なのではないか。
 もちろん、そう確信することはできない。
 しかし、人間なるもの、諸生物なるものを見ていると、そういう構造が潜んでいそうな想いはある。
 阿弥陀はその最後のシンボルでもあるのだろう。誰もが救われる。悪こそが救われる…。生きる経験のそのテロス(目的)とはその知の確信の構造でもあるだろうし、われわれがおよそ未来の子孫の繁栄なりを、地球の存続なりに美を見るのも、その構造の日常的な反映でもあるのだろう。
 だが…私はこのことをなんども考えた。私に科せられたやや不幸な運命も含めて考えたが、が、この問題はいまだ解決を拒絶したいというところにいる。
 「あなたが神だと信じるものは本当の神ではないのだ」という囁きにも似ている。
 と、少し、ふざけたい。
 仮面ライダー「アギト」で、ありがちな二元論の神が出てきた。卑近な大衆ロマンとはいえ、そこには単純な善悪の二元論ではなく、われわれを創造した神を越えるものが暗示されていた。ああいうことは、なにかあるのだろうなとは思う。
 ま、そんなことばかり考えているものでもないし、今、悲嘆にくれる人と私の関係の基本を規定するものでもない。