アイ’ムホーム 遙かなる家路|NHKドラマ | 連続ドラマ

 最終回とその前の一回あたりで、がくんとずっこけて、物語が転けた。ここまで持ちこたえたのが、見方によっては一気に駄作とされてもしかたない。ユンクはまずいよな、というと、最終回に新しい要素を持ち込むのは間違い。
 ま、この間違いの構図は、ヨブ記的でもある。ご存じの通り、ヨブ記の最終のヨブの救済は後代の加筆であり、あれは途方にくれる悲劇として終わっている物語だった。というか、ヨブ記を魂から読み込んだ人間ならあのハッピーエンドは除外する。それと最後の理屈をこくやつも除外。
 今回のドラマでは清原カオル…紺野美沙子をがんから救った。しかし、あれは死ぬはずのものだろう。また、家路ヨシコ…戸田菜穂は自ら自殺を選んだとすべきだろう。作者には、あるいは、そうしたシカケをしてNHKのドラマということで踏ん切れなかったのかもしれない。
 実際の人生というのは、許しもなくあそこで先妻が死に、後妻は自殺する…といった類のものである。生きることは、そういうものだ。地獄だ。
 はてなやブログを見ていて、自分より若い世代が多く、若いっていいなと思う。まだ、地獄の門は開いてない。いつそこに人を経過するのだろう。いや、人はそういう地獄を生きるようにできているのだろうなとは思う。
 もちろん、実際の人生というは、そういうドラマでもないし、地獄でもない、とも言える。ただ、変な言い方をすれば、その地獄を見ることが生きることであり、見ない幸福はただ転生のようなものの踊り場にすぎないのではないか。
 この地獄を救うのは、このドラマが示唆するように、許しだ。若さが必然的に罪に結びついているその許しなのだが、それが個々人の人生にどのように与えられるというのだろうか。人はそして、罪を生きていくのだが、そのあたりは、このドラマでは後妻との生活だった。そこが、いわゆるキリスト教のいうようなrebirthにならなかったところに脚本家の力量はある。
 文学でもそうだが、そこを越える力量を本当に求めていいのかわからなくなることがある。だが、そこを越える力だけが、たぶん、文学だろう。文学とは人間であり、人間とは、地獄であり、罪であり、そして許しであり、救いだ。…おっと、臭すぎ。
 浅野妙子さん、次作はどう書きますかね。