明日に備えることは愚かしい

 そういえば、共観福音書のイエスは、明日に備える人間を愚かしいと見ている。
 おまえは明日になるまえに死ぬのだ、と言っている。
 たしかに、そうだ。私は、いつか死ぬのだが、その死を刻む日には、明日はこない。私は明日を見ることなく死ぬのであり、そのありかたは、日々の生の構造として存在している。
 その愚かしさは、過去の愚かしさでもある。
 昔、T牧師は、私に、イエスは、アンデレのように今従いなさいというけど、そうはいかないものですよねと言った。私は嘘だと思った。今従わなくてはいけないとイエスは言っているのは、そういう解釈ではありえない。
 今従うというこということは、アンデレが魚網を捨てたように、そこに私の過去をすべて捨てることだ。私は私の過去、記憶を捨てることができるか。
 できるような気もする。
 しかし、できない。私は本ですら捨てることができない。もちろん、よく捨てた。私の人生の書籍をすべて捨てないでおけたらどんな図書館ができただろうとちょっと夢想する。空しい。
 私の記憶も知識も、明日までに消える。だから、今したがいなさいとイエスはいう。この絶対的な問いかけが人生にはある。いつもある。なぜかある。