今日の大手紙社説

 特になし。こどもの日なのでそうしたネタが多い。
 沖縄暮らしで思ったことの一つに、女の子が子供に優しいというのがある。女の子というのは、ティーンエージくらい。その子たちがふつうに赤ちゃんから幼稚園児くらいの子供にやさしい。やさしい、という言い方も拙いのだが、なんというか、ふつうに小さなお母さんというか、そういう感じがある。あの「ねーねー」(お姉さん)という子どもたちの少女を呼ぶ声を思い出す。そういえば、マルタの隣のゴゾ島でもそういう感じの少女がいた。ああいう雰囲気の風土というのがないと子供というのは生息しづらいのではないかと思った。
 あの「ねーねー」たちは普通にお母さんになっていくのだろうと思うし、私が沖縄にいたころのあの「ねーねー」たちも伝え聞くにお母さんになっていく。まあ、若いお母さんにもいろいろ問題があるのが沖縄でもあるのだが。

産経社説 【主張】こどもの日 “親業”もプロ目指したい - MSN産経ニュース

してよいこと悪いことの分別、寛容、謙譲、惻隠(そくいん)の情、規律を守る習慣など、自ら恒常的に学んで“親業”のプロを目指してほしい。

 ちょっと懸念して読むとそのままかと少し落胆。“親業”は自由に定義してもよいのだが、それなりの試みも目配せしてしかるべきかな。P.E.T.というのがある。

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親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方: トマス ゴードン, Thomas Gordon, 近藤 千恵
 今更と思ったらこれが完訳なのか。

毎日社説 社説:こどもの日に 真の宝とするためには - 毎日jp(毎日新聞)

 たぶん、この問題は、マドンナみたいな人が日本の市民社会に一定の勢力をもつというモデル性を持つのだろうと思う。つまり、他国の孤児を子として育てるという社会だろう。それが実現するのかというと、よくわからないが。

朝日社説 こどもの日に―世代間負担を見直そう : asahi.com(朝日新聞社)

 経済も人口も、右肩上がりの時代ではない。世代間負担の仕組みを根本から見直さなければ、子どもたちの未来は削り取られる一方だ。
 この国の将来を支える世代に、どう希望を残すのか。それを考えるのは、参政権をもつ私たち大人の責務だ。

 たぶん、そういうふうに倫理的に問うしかたが失敗したというか、そう政治参加に集約してしまうのがほぼ間違いなんだろうと思う。では? 基本的には貨幣価値を多少落とす方向に進めるしかない。それと、希望を私たちの地域の文脈に置き換えていくことだ。
 もうちょっというと、若い人が「勝ち組」を求めるのではなく自由を日々の幸福として是認するような社会、老いた人が自己の人生を自身のなかに解消できる社会か。やや抽象的だが。ある意味、「負け組」の人生というのが基本の市民社会なんだという定常感かな。

NHK “脳の力”〜テイラー博士からのメッセージ〜、見たよ

 ⇒NHK+ID 番組詳細 復活した“脳の力”〜テイラー博士からのメッセージ〜
 これは面白かった。お母さんがただものではないなと思ったし、運命のようなものも感じないではなかった。この手の美談は特例になりがちだが、むしろ、看護の側の人を勇気づけている姿をきちんと捉えたのは出色だった
 アマゾンではどうも在庫がなさそうだ。

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奇跡の脳: ジル・ボルト テイラー, Jill Bolte Taylor, 竹内 薫
 いずれ読んでみたい。

ナニ金は必読だと思うよ

 増田⇒http://anond.hatelabo.jp/20090505070317

ナニワ金融道」を全巻読破することをお勧めする。

 文脈はずすけど。
 これも古い本になったな。私もこれは普通に中学生が教育の一環で読むべきかと思う。
 最終巻の大芝居の前に、鯉の生き血を飲むシーンがある。ああいう昭和のリアリティというにも触れておいたほうがいいかな。
 なぜ?とか問われそうだが。

あー、私でよかったら答えてあげるよ

 増田⇒http://anond.hatelabo.jp/20090430154116

学校にも友達いない。ゲームでも勝てないからつまらない。本を読んでも理解できないから勉強もできない。ネットをしても叩かれるばかり。家族からは馬鹿にされ、他人からは見下され、自分からは疎外されている。生きるって何でしょうね。

 生きるっていうのは

  • 学校に友達がいなくても生きる、ってか、学校の外に出ろや
  • ゲームがつまんなかったらやめる、カネの正しい使いかたはドブに捨てたカネに振り向かないこと
  • 本を読んでも理解できないなら理解できるものから読む、そしてそこに留まって気の利いたエントリ書かないこと(書いてもいいけど)
  • 勉強する、あー勉強は楽しいなと思うまでする、楽しみが見つかったら勉強ができる
  • ネットをしても叩かれるばかり……まあ、そうだな、叩くやつがいるからな
  • 家族からは馬鹿にされ……イエス様でもそうだった
  • 他人からは見下され……ネットにいると特にそうだ

 ま、つまり、まんま。生きるっていうのは、こうもべたにまんま。
 ただ、「自分からは疎外されている」というのは、ほんとうに生きるということの本質なんだろうと思う。そこがお利口さんの受け売りでなくて、ああ、本当に私の人生は自分からの疎外を見つめることなんだと腹の底からわかったら(それまで血迷って疎外されていない本当の自分とか探しちゃうこともあるだろうけど)、つまり、そこから先は、つらい涙と感謝の人生の一本道があるよ。

日本の場合企業というのは数では中小企業が多くて

 それが大企業や官僚システムに接合してやっているわけで。
 一種の巨大な幕藩体制みたいになっている。
 で、その大企業や官僚システムもそれなりに大きくて、ちょっとした社会主義みたいになっている。純公務員というと実際は多くはないとして。
 ほいで、似たような弱者システムがあって、その互助会に入ると、え、国家じゃないところでそんな互助のシステムがあるのか、びっくりといったサブシステムがあって、ざっと見た感じだと国民の10パーセントくらいをカバーしちゃっている。まあ、一種のセイフティネットというか。
 ちょっとうろ覚えだけど、日本の場合、保護されている労働者というのは実際に多くない。終身雇用(長期雇用)にあずかる人は全体からは少ないのではなかったか。たしか、10%行かないはず。ただ、そういうシステムに見えるようなシステムではある、日本社会。
 中小企業というのは、一面、合理的な脱税システムみたいになっていて、地域のちっこい有力者みたいのに巨額な金銭を形成できないようにするように、国家に集約させるため、こういう奇妙な脱税システムがある、と思う。
 つまり、金持ちというのは、中小企業の社長さんということ。持っているカネというのは、実際には会社の帳簿。
 で、大企業の社長さんや高級官僚もその中小企業の社長さんと同じ生活レベルしかできない。税制的に日本には富裕者はできないようになっている。その代わりに、中小企業の社長さんがカネを使えるように権力が使えるシステムにはなっているが(というかウォルフレンのいう信用権保持)、まあ、権力はそう恣意的には使えないので両義的。(日本には外国のような富裕層はないからそういう個別で巨大な消費もない。カネがそもそも使えない仕組みにもなっている。)
 日本をどうする、雇用をどうする、といった議論は、この巨大幕藩体制をどう維持するかということになりかねない。
 まあ、個別の答えがないわけでもないけど、そういう問い掛けの枠組みから答えにはならないかな。
 大局的には中小企業が対外的な藩主に仕えるような錯綜したシステムになるかと思う。
 あまり知られてないかもしれないけど、というか昨今のネットを見ていると、戦前台湾は日本が支配したとか暢気に思っている人が多いけど、あそこには日本経済を左右するくらいの財閥も及ばない巨大な華僑資本があった。

ロートルを自覚する秋

 ⇒もうやらなくていい昔のコーディングテクニックあれこれ - スラッシュドット・ジャパン

Esther Schindler氏は古株プログラマーらに「頭痛の種だった昔のプログラミングテクニック」について尋ね、自身の経験も交えた記事をComputerWorldに掲載している。パンチカードとか、ハンガリアン記法とか、覚えているだろうか?

 えっ? ハンガリアン記法は今でも使うでしょ? 普通に。

諸兄方が昔を振り返ってみて「これは大変だった」と記憶に残っているものや、「今だったらもっと楽なのに」と思われるような懐かしい(?)思い出にはどんなものがあるだろうか?

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