なかなか眠れない人のための簡単に眠る10の方法の真意
inspired by ⇒なかなか眠れない人のための簡単に眠る10の方法 - GIGAZINE
- セックス後に十分に眠れなかったとしても心配するな(では第二ラウンド)
- オナニーすることを自分に強制するな
- 墓場に行くのはあなたが本当に疲れて……いや墓参りくらいで
- 目覚まし時計を昼に見るな、意味ないし
- 体を温めるそして湿らせる
- 寝過ごすことを回避せよ、別れの原因にもなるし
- セックスする、そりゃもう、やたらめったら、おっとそこは違う
- 寝るためにお酒を飲まない、勃ちも鈍くなるし男の場合
- 寝ることとセックスすること以外で寝室やベッドを使うな、ヨガはヨガマットで
- 冬眠しない
おまけ⇒404 Blog Not Found:なかなか眠れないbloggerのための簡単に眠る3の方法
1. Gigazineを読む
2. それでも眠れない場合、それをネタに記事を書く
3. それでも眠れない場合、まだGigazineが手をつけていない記事を惰訳する
羊を数えるよりブックマーク数を数えた方がよく眠れるかも。
1. 404 Blog Not Foundを読む
2. それでも目が覚めない場合、それをネタに記事を書く
3. それでも目が覚めない場合、404 Blog Not Foundにいちゃもんをつける
羊を数えるよりネガコメ読み返した方がよく目が覚めるかも。
追記
ちなみにこのエントリのぶくま⇒はてなブックマーク - なかなか眠れない人のための簡単に眠る10の方法の真意 - finalventの日記
たぶん私がまさにだろうが
つまり、気違い。
ってやつかな。そう思われてもしかたないな、こんなこと書いているのだからなと思う。
そして、そういう気違いだからなのか、私がネットやメディアを通して見る情報などが気違いに見える。これは気違いは傍を気違いだと思うという相対的に、ということなのだろう。
今年は特にそういう思いが強くなった。
ということは私の気違い度がアップしてしまったということか。
ネットというのは完全に開かれているわけではないが、かなり開かれている。つまり、対話は可能だ。だが、そういう対話の可能性が技術的に見えて来つつあると、実際の運用ではその逆が起きる、テレビが登場したときのように。
この人には全然通じないなと思うことが多くなった。
対話のツールとかの問題ではないな、と。
むしろ、二三回でも対話できるほうは、一見すると通じないと嘆かざるをえないようでも、冷静に考えればまだ通じているの部類だ。
通じるというのは、別に理解せよということではない。そういう考えもあるかね、という許容性だけのことだ。
社会的な問題は、公理的な世界ではないから、単純な真偽の命題にはならない。
ブログとかだと。
この日記は当初からトラバを公開していない。というか始めたときそういう仕様だったし、私はなかなかはてなの新しい機能に馴染めない。で、ネガコメならぬネガトラバみたいのをいただく、と、編集画面にリンクが表示されるので、一応見ます。
でも、そうして見に行って、あれれ、これ、全然伝わらないだろうなと思うと、スルー力という以前に脱力感がある。普通に読解力なさそうだと思うけど、そう指摘したら怒られるのはわかりきったことで、なので怒りを徴発する必要もないだろうと思ってだまってしまう。
で、連想だけど。
このところスウェーデンボリの本とか読んでいた。ある意味、気違いにふさわしいっていう面もあるが、いろいろ考えさせられることもあった。
単的に言えば、愛、ということだ。
スウェーデンボリは愛そのものを大きく二分して、天国と地獄にマップしていた。主への愛と隣人愛は天国、自己愛と世間は愛は地獄。
まあ、そういう考えもあるだろう。
そして、そう考えるのはある意味、合理的にも思えた。
スウェーデンボリはさらに、人は自ら地獄に行くのだと説いていた。そのあたり、いわゆるキリスト教の審判の思想とどう関連するか、れいの三位一体論と併せて存外に難しいが、そのあたりはさておき、人は自ら地獄に行く、自分の意志で地獄に堕ちる、というのは、なかなかそれも合理的な考えかただなと思った。
人は自分の真理だの快楽だのそういうものに従って生きて、つまり自由選択で生きて、そして結果が地獄というのは、別の死後の生など想定しなくても納得できる部分がある。
「ああ、この人は自分の自由意志で地獄に堕ちるんだろうな、私にはわからないや、私に関係ない。私はといえば、じゃ、白ワイン、もうワングラス、プリーズ」みたいな。
で、これも鏡像的に、私が善だ、真理だと思っているものは、差し詰め地獄への道かもしれない。しかたがないなという感じはする。そして、人が同様にその人の地獄を選択していても、しかたがないな、それが自由ということなのだしと思う。
スウェーデンボリに言わせると、そのあたりは完全に相対・鏡像的ではなく、つまり天国と地獄は相手側からそう見えるだけというわけではなく、先の愛の二分でわかるらしい。
とはいえ、地獄に堕ちる人は、いやそれは比喩だけどね、主と思っている主がやはり主観でしょうとなる。すると次善に、隣人愛となるが、これも、悪党どももその隣人は愛している。同じことか。
すると、自己愛を減らすことと世間愛を減らすという背理的な次善の策はありそうだが、そのあたりはけっこういいかもしれない。たしかに、自己愛を減らして、世間愛を減らして生きていくのは安らぎだしね。その方向に天国あるかも。
とま、くだらないこと考えながら、ぼんやり肉まんでも食っていると、私の天使がやってきて、あのさ、という、なんだね、私はスウェーデンボリのような霊能力者じゃないよ、でも、話は聞くのさ、と。
私の天使が言うのは、「あのね、主が説いたのは、汝の敵を愛せよ、だよね」。
ああ、そうだ。隣人愛、主への愛そういう一見合理的に見える愛ではなく、イエスは、敵を愛しないと言った。変な教えだなと思うが、つまり、その含意をどう受け止めるかは、相対的・鏡像的狂気から少し人を冷静にさせるかもしれない。
敵を愛することはできるかもしれない。敵を救ったり(人は自由に地獄に堕ちるし)、この世に王国を打ち立てることはできない、としても。
バブルへGO!!、見たよ
いまごろ。
⇒[映画]バブルへGO!!〜タイムマシンはドラム式〜 公式サイト
バブルへGO!! タイムマシンはドラム式 スタンダード・エディション: DVD: 馬場康夫 |
映画としては、面白いといえば面白かったし、広末もなかなかの役者だとは思った。
バブル経済の評価については、不動産バブル潰しは端緒であって、その後の金融政策のほうが問題だし、いわゆるハゲタカ陰謀論めいたシャレは作っている本人たちは悪のりなのだろうけど、あまり面白い仕立てではなかった。
日立が出てくるのは、馬場康夫という内輪ウケかな。
追記
文学作品でもそうだが、読後しばらくしてその伝えんとする部分のコアがなんとなく固まってくることがある。真意というのではなく個人的な受容に過ぎないのだが、と、この映画については、主人公がことあるごとに殴られて、「効くなぁ」というあたりなのだろう。
殴るというのは比喩としてもいいが、そうした強い痛みを相手に知らせるようなそういう強い人間関係へのノスタルジーがこの映画のコアにあるのだろう。
それと、たぶん、馬場がと言っていいと思うが、娘を大きくしたのではないか。かつて女として見えた存在が男にとって自分の娘に見える感覚。
そういう意味で、この映画は、「バブル」をネタにしているが、基本的にはシンプルなアメリカン青春人生ものというか、ビルドゥングスの作品なのだろう。
これも人のことを言えたことではないが
浅薄な印象を受ける言葉が多くなったような気がする。
反語が通じないという指摘が以前どこかのブログにあったが、含意なども通じない。修辞はさらに通じない。
学校化社会というのだろうか。
まあ、それが世の中の流れということか。
あるよく売れた本で
海外ものだけど。
今年はなんども読み直していて、その度ごとにある種、ぞっとする感じがする。
筆者、たぶん、誰に通じないだろうとわかっていて書いている。その奇妙な孤立感と痛みのような感じと、複雑なパズルのような世界がある。
いわゆる書評などでもまるで理解されている形跡もないし、信奉者みたいな人たちも読み解いていないとしか思えない。
マルクス・アウレリウスの自省録も、表面的にわかる部分と、そうは通じないだろうといういう痛みのような、微妙な部分がある。
通じないだろうし、誤解されるだけだろうと、そしてそもそも書く意味などあるのだろうかと、そう思いつつも書いているという、そういう心の息吹のようなものが、ぞっとするほどわかってしまうことがある。
そういうのは読書の深い喜びとも言えるだろうし、ある種の絶望とも言えるかもしれない。