たぶん私がまさにだろうが

 つまり、気違い。
 ってやつかな。そう思われてもしかたないな、こんなこと書いているのだからなと思う。
 そして、そういう気違いだからなのか、私がネットやメディアを通して見る情報などが気違いに見える。これは気違いは傍を気違いだと思うという相対的に、ということなのだろう。
 今年は特にそういう思いが強くなった。
 ということは私の気違い度がアップしてしまったということか。
 ネットというのは完全に開かれているわけではないが、かなり開かれている。つまり、対話は可能だ。だが、そういう対話の可能性が技術的に見えて来つつあると、実際の運用ではその逆が起きる、テレビが登場したときのように。
 この人には全然通じないなと思うことが多くなった。
 対話のツールとかの問題ではないな、と。
 むしろ、二三回でも対話できるほうは、一見すると通じないと嘆かざるをえないようでも、冷静に考えればまだ通じているの部類だ。
 通じるというのは、別に理解せよということではない。そういう考えもあるかね、という許容性だけのことだ。
 社会的な問題は、公理的な世界ではないから、単純な真偽の命題にはならない。
 ブログとかだと。
 この日記は当初からトラバを公開していない。というか始めたときそういう仕様だったし、私はなかなかはてなの新しい機能に馴染めない。で、ネガコメならぬネガトラバみたいのをいただく、と、編集画面にリンクが表示されるので、一応見ます。
 でも、そうして見に行って、あれれ、これ、全然伝わらないだろうなと思うと、スルー力という以前に脱力感がある。普通に読解力なさそうだと思うけど、そう指摘したら怒られるのはわかりきったことで、なので怒りを徴発する必要もないだろうと思ってだまってしまう。
 で、連想だけど。
 このところスウェーデンボリの本とか読んでいた。ある意味、気違いにふさわしいっていう面もあるが、いろいろ考えさせられることもあった。
 単的に言えば、愛、ということだ。
 スウェーデンボリは愛そのものを大きく二分して、天国と地獄にマップしていた。主への愛と隣人愛は天国、自己愛と世間は愛は地獄。
 まあ、そういう考えもあるだろう。
 そして、そう考えるのはある意味、合理的にも思えた。
 スウェーデンボリはさらに、人は自ら地獄に行くのだと説いていた。そのあたり、いわゆるキリスト教の審判の思想とどう関連するか、れいの三位一体論と併せて存外に難しいが、そのあたりはさておき、人は自ら地獄に行く、自分の意志で地獄に堕ちる、というのは、なかなかそれも合理的な考えかただなと思った。
 人は自分の真理だの快楽だのそういうものに従って生きて、つまり自由選択で生きて、そして結果が地獄というのは、別の死後の生など想定しなくても納得できる部分がある。
 「ああ、この人は自分の自由意志で地獄に堕ちるんだろうな、私にはわからないや、私に関係ない。私はといえば、じゃ、白ワイン、もうワングラス、プリーズ」みたいな。
 で、これも鏡像的に、私が善だ、真理だと思っているものは、差し詰め地獄への道かもしれない。しかたがないなという感じはする。そして、人が同様にその人の地獄を選択していても、しかたがないな、それが自由ということなのだしと思う。
 スウェーデンボリに言わせると、そのあたりは完全に相対・鏡像的ではなく、つまり天国と地獄は相手側からそう見えるだけというわけではなく、先の愛の二分でわかるらしい。
 とはいえ、地獄に堕ちる人は、いやそれは比喩だけどね、主と思っている主がやはり主観でしょうとなる。すると次善に、隣人愛となるが、これも、悪党どももその隣人は愛している。同じことか。
 すると、自己愛を減らすことと世間愛を減らすという背理的な次善の策はありそうだが、そのあたりはけっこういいかもしれない。たしかに、自己愛を減らして、世間愛を減らして生きていくのは安らぎだしね。その方向に天国あるかも。
 とま、くだらないこと考えながら、ぼんやり肉まんでも食っていると、私の天使がやってきて、あのさ、という、なんだね、私はスウェーデンボリのような霊能力者じゃないよ、でも、話は聞くのさ、と。
 私の天使が言うのは、「あのね、主が説いたのは、汝の敵を愛せよ、だよね」。
 ああ、そうだ。隣人愛、主への愛そういう一見合理的に見える愛ではなく、イエスは、敵を愛しないと言った。変な教えだなと思うが、つまり、その含意をどう受け止めるかは、相対的・鏡像的狂気から少し人を冷静にさせるかもしれない。
 敵を愛することはできるかもしれない。敵を救ったり(人は自由に地獄に堕ちるし)、この世に王国を打ち立てることはできない、としても。