日経 春秋(9/25)

日本人の月の待ち方は尋常ではない。十五夜の前日、十四夜は待つ宵。明日十五夜は雨かもしれないから、十四夜の月をしっかり観賞しつつ明日の宵を待つ。1日後の十六夜はいざよい。出るのをためらっている風情のいざよう月を楽しみ、十七夜以降は、立ち待ち、居待ち、臥(ふ)し待ち、更け待ちと、ひたすら月を待ち続けるのが日本風。

 まあ、日本風はそうかもだけど、「日本人の月の待ち方は尋常ではない」とか書くのはどうかと思うよ。いちど、日本を出てアジアの文化で数年暮らしてみるといいよ。

読売社説 自民役員人事 政策・党運営はどう変わるのか

四氏は、いずれも派閥の領袖(りょうしゅう)だ。「古い派閥政治」との見方もあろうが、「挙党態勢」を優先した重厚な布陣とも言えるだろう。

 大人の笑いはほろ苦く、退廃的。

読売社説 原油最高値 世界の投機資金が流れ込んだ

 これにドル安問題とサウジの動向を加えて整理すると社説っぽくなるんだろうけど。
 まあ基本はカネ余りだ。

 原油高を根本から抑える最も効果的な方法は、金融を世界的に引き締め、投機資金を商品市場から退出させることだろう。しかし、サブプライムローン問題による金融市場の動揺が収まるまで、こうした強硬策を取るわけにはいかない。

 というわけで、「最も効果的な方法」になっていない。
 バーナンキ僧正はグリーン彦左衛門みたいに政治は使わないだろうから、変数が少なすぎる。か、どこかで、僧正事実上のご退場になるのかも。物騒な話だな。南無南無。

朝日社説 新たな貧困層―知恵を出せば救える

 特定政治家の失言を殊更に叩いた輩がこういう言説には素通りするんだろうな。あるいは。

 大切なのは、生活を安定させる手だてを全体として考えることだ。家賃の安い住宅を用意したり、住み込みの仕事を紹介したりするなど、住まいの確保を手助けするのもその一つだ。一時的に必要な金を工面できるよう、低利の貸付制度もほしい。仕事が見つかるまで、生活保護制度を活用することも考えられる。
 国や自治体だけでなく、民間の手や知恵も差し伸べられれば、さらに目配りのきいた支援になるかもしれない。もちろん本人の努力が欠かせないが、少しの手助けで生活の基盤さえ整えば、安定した生活や自立につなげられるはずだ。

 それとも、これでいいということか。

朝日社説 安倍内閣に幕―右派政権の成果と挫折

 話の前提から、安倍政権が右派政権だったことになっている。どこが右派だったのか、読むに。

 本人が最大の成果と強調したいのは、憲法改正の手続きである国民投票法憲法60年にして初めてつくったことだろう。教育基本法の改正と並んで「戦後レジームからの脱却」の2本柱だった。
 防衛庁を「省」に昇格させたのも、憲法改正自衛軍をつくることへの一里塚として特筆したいに違いない。
 ただ、こうした形づくりは右派政権としての誇るべき成果のはずなのに、内実が伴わなかったうえ、政権浮揚にほとんど結びつかなかったのは皮肉なことだ。

 国民投票法は内実には異論もあるが、あれはもっと早期に着手すべきだったことだし、教育基本法の改正については民主党案とそれほど差異もなかった。防衛省については、「憲法改正自衛軍をつくることへの一里塚として特筆したいに違いない」と言われると、まあ、そういう推測もあるかもしれないが、私の感性からすると、引く(ので、左翼にうんこ投げられるの鴨)。
 こんなのが右派政権だと思ってでやっきになって叩いていたのか。

快晴 中秋の名月

 前線が下がり、弱い。関東では名月が見られるだろう。沖縄の観月会を思い出すな。
 昨晩はちょっと無理をしすぎた。頭がヒートして、ゆるめようとしたらダジャレとかくだらないことばかり思う。Twitterに吐き出す。カンパリを飲み、静かな音楽を聴いていて、未明前に寝た。こういう無理は気をつけないとな。とか、自分を庇うようになるのがなさけないが、しかたない。

物象化論だけど

 ⇒草日記 - 「はてな村」物象化論 序説
 まあ、異論とかじゃなくて、ふと思い出したんで。
 ちなみにウィキペディアを見たら⇒物象化 - Wikipedia

マルクス自身は断片的な記述しか残していないが、ゲオルク・ルカーチ廣松渉が重要視したために注目されるようになった。

 うひゃ、げろ懐かしい。
 ほいで⇒[編集] 廣松渉の物象化論 : 物象化 - Wikipedia
 ま、どうでもいいんだけど、と、はてダを見ていたら。
 ⇒オオツカ´ - マルクス主義の疎外論超克説について(mixiの自コミュに書いたもの)

 今まで疎外論から物象化論という廣松渉の論点を鵜呑みにしていたんですが、テキストクリティークからすると結構疑わしいみたいですね。

 まあ、時代的な制約とか日本的な風土とかもあるんだろうけど、ま、廣松渉はちょっとみたいのはある。同じ事はヴェーバー大塚久雄でもそうかもだけど。
 で。

もし、疎外論マルクス主義をつらぬく問題系であるとするならば、むしろ廣松やルカーチの物象化論後の疎外論理解が必要になってくるんだと思います。

 ま、そうなんだろと思う。
 で、も、もう、私はこの系については、放り出した。どうでもいいや的。
 ただ、これ考えた頃、気になることがあって。
 「疎外論」の「疎外」なんだが、この概念の原型的なイメージの日本的な了解にかなり問題があるなと思った。
 ちょっと書く。
 枕に⇒疎外 - Wikipedia

疎外(そがい)とは、[1]哲学、経済学の用語としては、人間が作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。

 間違いではないんだけど、「疎外」の原型的なイメージで了解されていないと、腹からわかった感はないというか、操作的な概念になる(廣松はそのように私には見えるが)。
 で。
 マルクスの場合、Entfremdungになるのだが。

ドイツの経済学者カール・マルクスは、この疎外Entfremdungという用語をゲオルク・ヘーゲル精神現象学』(1807年)から継承し、またフォイエルバッハの、神が人間の善性を客体化したものである限り、それだけ人間は貧しくなる(「キリスト教の本質」)という思想も取り入れて、経済学用語に鋳直した。

 で、これも間違いではいんだが。というか、ヘーゲルはキモだが、むしろ、ヘーゲルフォイエルバッハの根底の西洋の考え方に根がある。で、それは。

ラテン語のalienato(他人のものにする)に由来する疎外概念は、経済、社会、歴史的には、客体として存在するようになったものを操作する力を主体が失っている状態のことを指す。たとえば、あるものが私とは無関係であるという場合、そのあるものに対して私は無力なものとして疎外されていることになる[2]。この疎外を克服することによって、人間はその本来の自己を取り戻し、その可能性を自己実現できるものとされる。

 というわけで、alienatoなんだね。で、その前に、alienatoということから、「この疎外を克服することによって、人間はその本来の自己を取り戻し、その可能性を自己実現できるものとされる。」が導出というか結合というか帰結できるかというところで、まず大きな留保が必要になる、と、思う。
 で、この[2]注がけっこう重要というか、まあ、こういうとこからも原型イメージが探れるのだけど。

フランスの哲学者ルソーは、「譲渡するaliener」ことを、「私と無縁なものetrangerとなる」ことだとしている。

 つまり、alienatoは、etrangerの感触なんですよ。
 で、etrangerとは、英語だと、strangerです。で、etrangerに異邦人、外人、異人の含みがあるように、strangerにもある。「変な人」が原型ではなく、共同体の外部の人、というところから、おまえ変、が出てくる。
 ほいで。
 alienatoにもどると、これを英語に写して近いのは、動詞でalienateがある。で、このalienateというのは、友人・家族などを疎遠にする、ということで、やはり、strangerと同様に共同体の外部の意識がある。
 もうちょっというと、共同体的な愛情を向けないという含みがある。ここの共同体の愛情感というのは、とても重要で、ちょっとここでいうと誤解しやすいけど、対幻想から共同体幻想への飛躍にも関連している。王=国家、が、どう発生するかということで、つまり、共同体と、異人、そして王=国家には同一の、共同心性的なものがある、というか、西洋の考え方の根底にそういうものがある。
 で、話戻して。
 alienatoの英語なんだけど、これは、べたに翻訳的に写すと、alienationですよ。
 マルクスの疎外Entfremdungは、英語で読み直すとわかるけど、alienationとなっている。(このあたりちょっと記憶によるだけど、ヘーゲルはEntfremdungは英語のalienationから受け止めたという歴史経緯があったかと思う。これを検証すれば、ラテン語alienato→英語alienation→ドイツ語Entfremdungとなり、むしろ、Entfremdungは、alienationとなる。)
 で、おちゃらけみたいだけど。
 alienato/alienationから来るetranger/strangerは、alienですよ。
 alienというのは、もとは異邦人で、それが近代の地球意識の妄想化で、宇宙人になるわけです。むしろ、彼ら西洋人の感覚の根底は、宇宙人に近い。ちなみに、黄色人種とか日本人もそれに近い感性的な受け止めになっている(恐いと自己より優れているの矛盾)。
 で、alienが宇宙人になるのは、地球が共同性的に理解される、というような地球認識とともに発生するわけで、つまり、共同性が意識されたとき、その臨界の向こうにalienateされるわけです。
 まあ、なんか疲れてきたので、端折るけど、疎外論の根底的なというか原型的なイメージというのはこういうものなんで、自己→愛情→共同生→臨界→外部、というのが、鏡像的に現れることがある。この感覚をわかってないと、このあたりの哲学をたぶん理解できないんじゃないかと思うのだけど、ネットとかでほざくと夜郎自大ですよね、たぶん。
 ま、ついでに、existence(存在)なんかも、ハイデガーとかサルトルとかダジャレのように、exi-stenceとしているけど、と、ちょっとラテン語語源を手元の辞書でみると、それも普通の理解でよいみたい、つまり、外に立つ=存在する、ということ。
 つまり、そもそもの存在に、外に出でて立つという疎外の契機を含んでいるっぽい。
 ま、与太で踏み込んじゃおうかな、ここはツッコミなしな。
 I am a teacher. とかいうときのbe動詞は、copulaとして理解されるのだけど、この構文というか(存在定立)は、I am. だけでも通じてしまい、つまり、
 
 I am a teacher.  私は教師です。
 I am. 私は存在します。
 
 の共通項の"I ama."の感覚をけっこう英語が上手な人でももっていないみたいなんだが、で、これは、I am a teacher.というのは、「私は存在する、教師として」というteacherが存在の補語となる。というか、ここで、I amがteacherとして外に立つから、存在するわけで、つまり、存在とは、I-amという存在と、として存在、の二相を持つ。
 で、普通、西洋的な意味での、存在とは、として存在なので、exi-stenceだし、認識が境界を作り出すという点で、alienatoの働きなんですよ。
 たぶん、OOPのクラスも、クラスがI-am存在で、インスタンスがa teacherみたいな発想の構造を持っていると思うけど、このあたりはちょっと違うかも。
 
追記
 ⇒オシテオサレテ - 2007-09-25
 私の間違いです。修正しました。

まちょっとノート

 ぼんやり考えていて。
 これの変奏かもだが⇒finalventの日記 - 曇天、降雨確率50%
 I am a teacher.というときの、I-am存在、と a teacher の関係なのだが。
 a teacherというのが存在である、というとき、密かに無名のI-am存在が内包されている。が、むしろ、世界の側の分節がa teacherを存在たらしめている。
 以前はこう考えた。

客観世界があるというのではなく、我意識の根底に、諸法の仏法なる時節、の大きな構造があり、その全体的な、宇宙的な意識構造とかいうとトンデモ臭いが、そういう意識を成立させる根底性(つまりは生命というのは意味関係の依存で成り立っている)があり、諸法の仏法なる時節において、諸法に我が想定されているとしてよいのではないか。だが、その仏法=意味構造の根底性というのは、時間=この今、に限定されており、我とはそれぞれが今というこの時点だけの存在、そして、それゆえに、「万法ともにわれにあらざる時節」というのはその時間構造を失った状態なのではないか。

 有時の問題は関係するが、もっと、存在に無名に潜んでいる名辞を、仏法=生命意味論、がネットワーク的に意味付与しているとしていい。万法はそれ自体が生命的な出現の機能的な分散として分節されている。
 で。
 「万法ともにわれにあらざる時節」=諸法無我、というのは、I-am存在がないということでいいのではないか?
 「我」は、通常、アートマンなので、インド哲学的には、それが存在するかしないかに関わらず、すでに実体的な措定が先行する。しかし、アートマンというのは、I-am存在の意識としていいので、その意味では、諸法=諸存在を支えるものとして有、としていいのではないか。
 で、無我論というのは、我=アートマンなる実体がない、や、分別知がないよって分節的な存在はない、というのではなく、I-am存在は、 a teacher なくしては存在せず、 a teacher そのものは存在しない、ということなのではないか。
 別の言い方をすれば、「我」というのは名詞ではなく、「ある(私は存在するというふうに存在する」という動詞的な機能であり、それらは、現実の有時の刹那に、諸法の仏法なる時節、として「ある」ということなのだろう。
 繰り返すが、「万法ともにわれにあらざる時節」は、I-am存在のない名辞的な、つまり、イデア的な存在はありえない、ということで、反プラトン的な哲学なのではないか(自信はないが)。
 レヴィナスイリヤ(il y a)は、I-am存在が暗黙に内包された諸存在の、まさに存在のありようの、つまり、λ演算みたいなものではないか。
 つまり、諸名辞は、イリヤによって存在しているけど、実際には、λ演算のようにそこに、I-am存在が適用される。洒落を言っているのではなく、名辞存在とは、関数的、functiona、機能的なもので、我の動的な構造を含むようになっているのではないか。
 たぶん、レヴィナスのにおいては、I-am存在が、a teacherなどのように存在する存在の様式と、I am Finalvent.のように、私が名を語ることで存在を、他者と取り結ぶありかたの存在様式を分けたのだろう。
 が、たぶん、それは、間違いっぽい感じはする。存在における倫理性は、つまり、仏教でいう仏道は、むしろ存在論の構図が生命論の構図を包括し、I-am存在をそのなかに「自己を失うということ」から出てくる。むしろ、無名の存在者として仏道が出現する。

うっわ、これはめちゃくちゃじゃないの

 これ⇒アートマン - Wikipedia
 と、思ったら。
 別項目になっているわけか⇒我 - Wikipedia
 これもちょっとな。
 それにしても、ちょっとこの分野の未整理はなんだろ。

難しいな、それ、増田

 ⇒病気のこと
 状況がわからないんでなんともだけど、こういう問題は、えてして、きちんと医者巡り、病院巡りをしてみると思わぬ展開があるかもしれない。ただ、これも率直にいうのだけど、西洋医学だけに限定したほうがいい。