まちょっとノート
ぼんやり考えていて。
これの変奏かもだが⇒finalventの日記 - 曇天、降雨確率50%
I am a teacher.というときの、I-am存在、と a teacher の関係なのだが。
a teacherというのが存在である、というとき、密かに無名のI-am存在が内包されている。が、むしろ、世界の側の分節がa teacherを存在たらしめている。
以前はこう考えた。
客観世界があるというのではなく、我意識の根底に、諸法の仏法なる時節、の大きな構造があり、その全体的な、宇宙的な意識構造とかいうとトンデモ臭いが、そういう意識を成立させる根底性(つまりは生命というのは意味関係の依存で成り立っている)があり、諸法の仏法なる時節において、諸法に我が想定されているとしてよいのではないか。だが、その仏法=意味構造の根底性というのは、時間=この今、に限定されており、我とはそれぞれが今というこの時点だけの存在、そして、それゆえに、「万法ともにわれにあらざる時節」というのはその時間構造を失った状態なのではないか。
有時の問題は関係するが、もっと、存在に無名に潜んでいる名辞を、仏法=生命意味論、がネットワーク的に意味付与しているとしていい。万法はそれ自体が生命的な出現の機能的な分散として分節されている。
で。
「万法ともにわれにあらざる時節」=諸法無我、というのは、I-am存在がないということでいいのではないか?
「我」は、通常、アートマンなので、インド哲学的には、それが存在するかしないかに関わらず、すでに実体的な措定が先行する。しかし、アートマンというのは、I-am存在の意識としていいので、その意味では、諸法=諸存在を支えるものとして有、としていいのではないか。
で、無我論というのは、我=アートマンなる実体がない、や、分別知がないよって分節的な存在はない、というのではなく、I-am存在は、 a teacher なくしては存在せず、 a teacher そのものは存在しない、ということなのではないか。
別の言い方をすれば、「我」というのは名詞ではなく、「ある(私は存在するというふうに存在する」という動詞的な機能であり、それらは、現実の有時の刹那に、諸法の仏法なる時節、として「ある」ということなのだろう。
繰り返すが、「万法ともにわれにあらざる時節」は、I-am存在のない名辞的な、つまり、イデア的な存在はありえない、ということで、反プラトン的な哲学なのではないか(自信はないが)。
レヴィナスのイリヤ(il y a)は、I-am存在が暗黙に内包された諸存在の、まさに存在のありようの、つまり、λ演算みたいなものではないか。
つまり、諸名辞は、イリヤによって存在しているけど、実際には、λ演算のようにそこに、I-am存在が適用される。洒落を言っているのではなく、名辞存在とは、関数的、functiona、機能的なもので、我の動的な構造を含むようになっているのではないか。
たぶん、レヴィナスのにおいては、I-am存在が、a teacherなどのように存在する存在の様式と、I am Finalvent.のように、私が名を語ることで存在を、他者と取り結ぶありかたの存在様式を分けたのだろう。
が、たぶん、それは、間違いっぽい感じはする。存在における倫理性は、つまり、仏教でいう仏道は、むしろ存在論の構図が生命論の構図を包括し、I-am存在をそのなかに「自己を失うということ」から出てくる。むしろ、無名の存在者として仏道が出現する。