炎天

 街が閑散としてしてきている。昨晩はカクテル缶を2つ飲み、飲み過ぎた。ジュースと同じなので、1缶くいっと(ああ缶からは飲まないけど)飲んで、ものたりずもう1缶開けて、少ししたらうまくなくなったのだけど、暑いのでなにげにもう少し飲み、半分くらいでさすがにやめた。それと寝付かれないせいもあったか、朝はちょっとだるかった。と、思いだしたが水泳とかあと頭をごりごり使っているのもあるか。まあ、この酷暑をなんとか乗り越えたい。体重計にのると少し痩せたか。(もともと太っている人ではないけど。)
 そういえば極東ブログが自然に夏休みモードになっているな。

日経 春秋(8/12)

 コラムとしてはしょーもなさすぎて言及すべきではないのだが。

 若者の間でKYは「空気が読めない」の略。会議中に耳元でKYとささやいて「場の空気を読め」と助言したり、誰かをKYと名指しして「空気の読めないやつ」とおとしたりするらしい。軽いノリの背後に、異端や異質を排除するいじめ感覚も見え隠れする。

 空気を読むというのは、単純な話、「空気を読め」というやつに従属したフリをしていればいいということだ。つまり、糞みたいな権力システム。

産経社説 【主張】不登校増加 事なかれでは解決しない

 義務教育をもっと地域に解体し、不登校の概念が成立しないような状況にしてもよいと思うのだが、ようするにそういう地域形成ができないのと、世論というか左翼世論というか右翼世論も同じか、どうしてこうまで国家志向なのだろうか。

毎日社説 世界同時株安 リスク管理の甘さを突かれた

 表題を見てまたかよと思ったが、読み進めるに、これはきちんと書かかれている。いつもの財務省ラッパの人と同じ人が書いているのだろうか。結論は明後日に飛んでいるからそうかもしれないが。

 今回の株安は欧州で始まった。仏大手銀行グループが、サブプライムローンを組み入れたファンドの凍結を発表したことがきっかけだった。ファンドに資金を投じていた投資家は解約ができなくなる。信用不安への懸念から資金供給が細り、懸念は世界の金融市場に波及した。
 似たようなことが起こる可能性は十分にある。サブプライムローンは、米国の住宅ローン全体からみれば、それほど規模が大きいわけではない。しかし、証券化されて転売され、さらに、現在どの程度の資産価値があるのか判然としないため、焦げ付きによって誰にどのくらい損失が生じるのかがはっきりしない。

 ただ、上限はなんとなく分かっているっぽいし、バーナンギ僧正がそのレベルでドジるとも思えない。

あ、そうそう南武線

 ⇒すべらない名無し | 南武線に乗ろう
 東京に戻ってから数回乗ったが、そんな感じ。
 一度一時間くらい停止したのに乗り合わせたが、のんびりしていた。
 日本のシリコンバレーとか言っていたのは20年くらい前だったか。あのあたり、つげ義春の風景でもあるな。

どうすいるべきか

 ⇒pal-9999の日記 - 魅力的な女性が性欲の度合いによって変化するのをどうすいるべきか。
 ここで。
 女というのものがわかってないな、とか。
 若いときはそうかもな、とか。
 書かないです。
 「一晩徹夜してもムラムラが落ち着かないので」は疲れマラとか、要らぬコメントもなしなし。
 女性を性の対象として村々しているのは、ある意味で、大人になれてよかったねなんだけど、どうも世間を眺めるに、「結婚相手の女性選ぶときは」というところで「母」的な要素が入ってくるのはまじーかな。(母との決別から男は性欲を持つものかというと、そうではない形態もあり略。)
 野暮を覚悟でいえば、結論は逆で、「結婚相手の女性選ぶときは」のほうが「遊び相手としては面白そう」を選ぶのがよいのだろうと思うけど、というか。
 おセックスなんて長くても2時間ですよ。マックスでも週に6時間(多すぎ?)。で、男女の関係はその数倍長い時間の関係なわけですよ、というとき、略。

猫猫先生、喝破するに

 ⇒猫を償うに猫をもってせよ - バタイユ入門

 ええ、『バタイユ入門』はいい本でしたよ。キリスト教徒以外にはバタイユは何の意味もないということがよく分かりました。日本のインテリって、キリスト教徒でもないのに、どうして『黙示録論』とか『カラマーゾフの兄弟』とかを読んで感心できるんでしょうねえ。ふしぎ。

 いや、まったく、そ。
 (バタイユというのはでもヘーゲルなんですけどとかツッコミはなし。)
 逆に、キリスト教徒の日本人は、略。

メモ

 ⇒はてなブックマーク - らばQ : 男として生まれてきてよかった100の理由
 ⇒らばQ : 男として生まれてきてよかった100の理由
 ⇒The top 100 reasons it's great to be a guy
追記・編集
 この項に移動。
 移動先⇒極東ブログ: ちょっと気になる英語の言い回し

どうでもいいけどそれは違う

 ⇒煩悩是道場 - はて☆すた盛り上げ企画っ!「もってけ、はてなスター」

私は「らき☆すた」どころか「ニコニコ動画」でも「ふちゃぎ*1」くらいしか見ないのでMADがどうとかいう話もブログで読んだだけで見た事はありません。

 *1186904449*1:沖縄に住む猫の名前。ギザカワユス

 どうでもいいけどそれは違う。
 で。
 ⇒◎楽園通信-BlogStyle◎: ■ふちゃぎ

Thanxです。

 ⇒サブプライム問題について一言。 | bewaad institute@kasumigaseki
 そうかな、と。
 ただ、あれです。

2. 原因への対応としては、マクロ的な下支えを十分に果たした上で、市場での調整にゆだねる。

 現状の推移の場合、それでいいですし、今回の件、規模的には意外と大きくなさそうなので、「市場での調整」ということなのでしょうが。
 ただ、ちょっともやもやした感じが残るのですよね。
 きちんと質問の形式にまとめるべきなんですが、私とか。
 (もやっというのは、この事態の基底にある過剰流動性というのは、円キャリーとかありそうなので、日本のリフレ政策というのは国内政治的にはまあそうでも、これだえけ大きな国になると、国外への波及もあって、こういう過剰流動性を世界にもたらすのは不可避だったのだろうな、と。)

「神」とかにも、ちっと

 この手の話は、なんか肉屋臭いんでどうかもとも思うけど。
 私の誤解かもですが、日本人が「神」というとき、日本の八百万の神(ちなみにそんなものはなくて日本の古代は実は道教ですけど)とかのつまんない議論は別として、唯一神とかいうとき、又吉さんなんかのあれもたぶんそうかなと思うけど、創造者と被造物という枠組みの感覚が抜けているように思うのですよ。
 天も地も諸生物もというか存在そのものを(アウグスチヌス的に言うと時間も)、神が創造した、というか、その創造者としての「神」という感覚と、自分が被造物であり、諸存在が被造物であるという感覚はあまりないんだと思う。
 というか、またアレゲな話なんだけど、思春期の終わりころ、私は、この感覚が愕然とやってきて、私も諸存在もというか存在というのは被造物なのだとあっけらかんと腑に落ちてしまって、がらがら世界観が変わったというか、世界が異様にくっきりと見えた記憶があるのですよ。神秘体験というのではないのだけど、というか、そういうのじゃなくて。これが、すげー当たり前で、ああ、この感覚のなかで、彼らは生きていたのかと思ったというか。でも、以降、そこから抜けられない。いや、沖縄で暮らしていて、ちょっと抜けたかな。
 被造物=人間というのは、神の霊というか霊=息を吹き込まれたもので、その息が消えるとき、泥に帰る。で、その息というのは、言葉(だから舌のようなもの)、であって、創造とは言葉なのだと、それも同時にお腹が痛くなるくらい、まさに痛感した。
 神が光あれ、と、言ったから、光という存在が始まった。存在はその神の言葉によって造られた物だ、ということは、諸存在は神の言葉に存在の根拠を持っており、その根拠があるということが、創造者と被造物の関係なのだと、自分なりに理解した。
 というか、天地があって空があって風吹いて、太陽がぎんぎん照っていて、それらすべての存在があるということが神の言葉として被造されているという、圧倒的な存在の世界に投げ込まれているという感覚。
 日本人とか中国人とかインド人とかは、神にしても天にしても、創造者ではない。というか、まず我があってその我の根底の原理性として神とか考えるというか、ダルマとかノモスとか出てくるというか、ギリシア人もそうか。
 だから、世界は理を究めうるもので、究理としての物理学とかある。ところがこれが西欧的な創造者と被造物の世界では、言葉=ロゴスの問題になり、そこが、なんというか、うわぁ全然通じないよというくらいの世界の差になる。
 というか、日本人はだから科学というときそこに神の位置なんかないけど、彼らは科学というのはそのまま被造のロゴスの問題になる。まあ、べたにそうだとも言えないのだけど。
 で、この先。
 被造物だから自由があり、責任があるというのが、きちんとつながってくる。被造物というのは存在の信用貸しなんですよ。だから、私という被造物には自由があり、その自由に対して、神は全幅の信頼を置いているというか、そのような自由の似姿として被造したわけですよ。
 なんか神懸かりみたいな話になったし、それって信仰と違うかよ(そう思いこんでいるのあんただけ)みたいな話になるでしょ。
 まあ、それでいいんですけど。
 これはすごいシンプルな感覚なんですよ。暑いなとか寒いなとか、不味いなとかうまいなとか。

で西洋といっても

 実はそれほどキリスト教的な世界ではないのですね。
 もともとキリスト教というのはオリエントな宗教だし。
 ゲド戦記みたいな世界のほうがより西洋の古層に近い。
 まあ、なんというか。ごにょごにょ。

ついでに

 ああ、止まらない。
 この創造者である神というのは、旧約聖書とか読んでいると、げげげというくらいべたに書いてある。
 なので、ヘブライキリスト教、とかつい考えるし、キリスト教がそうだとかつい考えがちなのだけど。
 どうも、ヘブライスムというのはそうでもないみたいです。
 で、キリスト教というのもけっこうそうでもないみたい。
 じゃあなんだというヘンテコなことになるけど。
 旧約聖書の世界と、ユダヤ教文化というのは、どうも直線的にはつながってなくて、もちろんつながりはあるにせよ、どうも異質な何かのようだし。
 キリスト教になると、あれ、べたに三位一体というのが出てくる。
 なので、旧約聖書的な創造者である神というのは、ヘブライスムやキリスト教から分離できる何かなのかもしれないとも思った、ことがあるのですが、わかんね。
 どうもヘブライスムというのあスーフィースムなんかに近い面がありそうだし。
 キリスト教というのは、どうもこれもまた(仏教と同じで)ゾロアスター教後継宗教なんじゃないかというか。
 まあ、あと1000年くらい人文学が進歩すると何かわかってくるのかもしれませんが、私にはもうどうもいいやのテーマ。
 ただ、創造者である神というこの強固な生存感覚は、メタトラウマみたいな感じ。