「神」とかにも、ちっと

 この手の話は、なんか肉屋臭いんでどうかもとも思うけど。
 私の誤解かもですが、日本人が「神」というとき、日本の八百万の神(ちなみにそんなものはなくて日本の古代は実は道教ですけど)とかのつまんない議論は別として、唯一神とかいうとき、又吉さんなんかのあれもたぶんそうかなと思うけど、創造者と被造物という枠組みの感覚が抜けているように思うのですよ。
 天も地も諸生物もというか存在そのものを(アウグスチヌス的に言うと時間も)、神が創造した、というか、その創造者としての「神」という感覚と、自分が被造物であり、諸存在が被造物であるという感覚はあまりないんだと思う。
 というか、またアレゲな話なんだけど、思春期の終わりころ、私は、この感覚が愕然とやってきて、私も諸存在もというか存在というのは被造物なのだとあっけらかんと腑に落ちてしまって、がらがら世界観が変わったというか、世界が異様にくっきりと見えた記憶があるのですよ。神秘体験というのではないのだけど、というか、そういうのじゃなくて。これが、すげー当たり前で、ああ、この感覚のなかで、彼らは生きていたのかと思ったというか。でも、以降、そこから抜けられない。いや、沖縄で暮らしていて、ちょっと抜けたかな。
 被造物=人間というのは、神の霊というか霊=息を吹き込まれたもので、その息が消えるとき、泥に帰る。で、その息というのは、言葉(だから舌のようなもの)、であって、創造とは言葉なのだと、それも同時にお腹が痛くなるくらい、まさに痛感した。
 神が光あれ、と、言ったから、光という存在が始まった。存在はその神の言葉によって造られた物だ、ということは、諸存在は神の言葉に存在の根拠を持っており、その根拠があるということが、創造者と被造物の関係なのだと、自分なりに理解した。
 というか、天地があって空があって風吹いて、太陽がぎんぎん照っていて、それらすべての存在があるということが神の言葉として被造されているという、圧倒的な存在の世界に投げ込まれているという感覚。
 日本人とか中国人とかインド人とかは、神にしても天にしても、創造者ではない。というか、まず我があってその我の根底の原理性として神とか考えるというか、ダルマとかノモスとか出てくるというか、ギリシア人もそうか。
 だから、世界は理を究めうるもので、究理としての物理学とかある。ところがこれが西欧的な創造者と被造物の世界では、言葉=ロゴスの問題になり、そこが、なんというか、うわぁ全然通じないよというくらいの世界の差になる。
 というか、日本人はだから科学というときそこに神の位置なんかないけど、彼らは科学というのはそのまま被造のロゴスの問題になる。まあ、べたにそうだとも言えないのだけど。
 で、この先。
 被造物だから自由があり、責任があるというのが、きちんとつながってくる。被造物というのは存在の信用貸しなんですよ。だから、私という被造物には自由があり、その自由に対して、神は全幅の信頼を置いているというか、そのような自由の似姿として被造したわけですよ。
 なんか神懸かりみたいな話になったし、それって信仰と違うかよ(そう思いこんでいるのあんただけ)みたいな話になるでしょ。
 まあ、それでいいんですけど。
 これはすごいシンプルな感覚なんですよ。暑いなとか寒いなとか、不味いなとかうまいなとか。