日経 NIKKEI NET:社説・春秋 ニュース
どうでもいいことなんだが。
戦後を見つめてきた老政治家が逝った。
なんとなく日本語的にひっかかるのは、「逝った」に「老政治家」だからだろうか。つまり、「老」がひっかかるのか私の語感では。
産経社説 【主張】TBS株主総会 楽天は矛を収める潮時だ
オワタという感じでしょうか。これで楽天はどうなるか。いろいろ出てくるのか。アレとか出てきたら世間的にはドンビキだろうがさて出すのか、わかんね。
産経の社説ではリクルートへの言及がない。なくてもいいといえばそうだが。
⇒TBS、リクルートと資本提携 : NIKKEI NET:企業 ニュース
曇天、蒸し暑くなりそうだ
昨日エレベーターで乗り合わせた気だてのよさげな奥さんが、暑いですね、朝びっしょりとか言っていたが、聞いててどうもエロくていかんなこりゃとか思った。
小さいことがごちゃごちゃとしてきており、それがどうも読書とかにも波及している。読みかけの本とか、どれがどうなってんの状態。いかんな。
と、今日は金曜日か。
速いな。一昨日月曜だった感じだ。
そういえばD・H・ローレンスだが
これとか昨日のコメント欄とかで思い出した⇒finalventの日記 - またやってら調査
D・H・ローレンスの詩に、ああ、タイトルとか忘れてしまったが、おセックスをしようよ蛇たちがそうするように、みたいなフレーズがあったが、蛇の交尾というのはどうなんでしょうね。
これじゃないんだけど⇒D. H. Lawrence, "Snake"
なんだったか。
ババリアの竜胆と同じ詩集だったかと。
⇒[minstrels] Bavarian Gentians -- D. H. Lawrence
⇒D・H・ローレンス - Wikipedia
⇒D. H. Lawrence - Wikipedia, the free encyclopedia
で、ローレンスはオカルト的でもあった。日本ではあまり研究されていないように思うが。
As his philosophy develops, Lawrence moves away from more direct Christian analogies and instead touches upon Mysticism, Buddhism, and Pagan theologies. There could also be seen to be Rosicrucian and Esoteric aspects to much of his writing. In some respects, Lawrence was a forerunner of the growing interest in the occult that occured in the twentieth century, though he himself would have identified with being a Christian. He may have preferred the distinction of being a New Age pioneer, particularly in a time when such ideas were seen as extreme or radical.
今日の増田的話題
ついてけん⇒しんど
ぶくま受けしてなげ⇒はてなブックマーク - しんど
個人的にはすごく変な感じがする
これ⇒はてなブックマーク - 「あ、プレゼント買わなくちゃ!」に役立ちそうなおしゃれショップまとめ | P O P * P O P
批判とかではなくて、なんというか、ネット見てないで街を歩いて見て回ればいいのにというか。
やはりというかログイン
やはり問題ありそうなので、以下のエントリを削除しました。ご不快に思われたかたに申し訳ありませんでした。
削除した⇒*私が言うと誤解されるんだろうけど
というわけで、サバトをとりあえず中断します。
私が言うと誤解されるんだろうけど(リライト版)
最初の版では、私ことfinalventの立ち位置(アルファーブロガーと言われることがある)から読まれると誤解されるだろうと懸念したことと、具体的な著作家やブロガーを指示したこともあり、私としてはそういう含意も内意はなかったのだが、ご不快に思われたかたもあったようだった。ブログは書き方を注意しないといけないものだなと反省する機会にもなった。以下、具体的な著作家やブロガーを指示しない形で、内容点だけ構成しなおしてリライトしてみた。
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ブログユーザーが現状どの程度広がっているかについては統計的には知らないが、はてなダイアリーが始まり、アルファーブロガー企画などがあった4年前から比べれば、大きな変化を遂げた。そこで原型的ともいえる4年前のブログの世界だが、さらにその先駆型となるMTなどの技術への関心の話題やfj的な技術系を引いた話題のブログがあり、それに傍系としてアルファーブロガー企画のころの文系的な、いわゆるブログ論壇的的な傾向が現れた矢先だった。
文系的なブログの世界が、この間の小泉政治への賛否を巻き込むかたちで政治的な言論のツールになったり、文化戦争的な様相も示した。
ブログの小さな世界は当時2ちゃんねるとも対比された(今でも対比されうる)。2ちゃんねるが新しい世代の愛国主義的な傾向を持ちながらも、基本的に匿名であることや掲示板という、まとまった言説の単位を持たないことからモブ的な傾向を併せ持っていたことに対して、ブログ論壇的的な世界は、一方でモブ的な傾向から距離を置き、より欧米リベラル的な発言、旧来からの左翼ジャーナリズム的な発言、愛国主義的な傾向の発言などがあった。同時に技術系のブログも広がっていた。これら1年から2年くらいあるブログシーンを形成していた。
しかし、その後、ブログの世界は、マス的な拡大が起きた。このため、当初のコア的なブログシーンの世界は、むしろブログの世界全体からは辺境的な位置付けを持つようになった。この部分の現在的な継承は、はてなブックマークの20ブックマーク程度のエントリに見られる。基本的に、現状ではこうした部分のブログシーンは、マス的な共同体的なゆるい関係性を持たせるべく設計されたはてなが独自に保持・発展してきた(が、はてなもまたさらにマス的なブログの世界へのある種の乗り遅れのようなものがあり、Twitter的なマスの拡大世界から取り残されつつある)。
現在に至るブログシーンだが、コアのあるいはプリミティブなブログシーン(はてな的なブロガー)は、別の2極の影響を受けるようになった。よりマス=大衆的な動向、と、イスタブリッシュな知性の動向である(もちろん、これもはてなに包括されうるとも考えられるが)。
マス側の極では、そのなかに近未来の消費市場に形成すべくテレビ的な話題形成の操作が実質介入されるようになった。有名人ブログや各種のブログイベント、その他マーケッティングが適用されるようになった。もっとも、この側面での実際のブログシーンでは、テレビ的な世界から半落ちしたあるいはややマイナーな有名人の緩いファンコミュニティ化がむしろ積極的に進行しつつある。
イスタブリッシュな知性の極では、この数年来の新書ブームを支えるような知識人がブログシーンに登場するようになった。彼らにとってブログは、メインの知性販売の市場との対比において位置づけらるものであって、無料の文章はそのサポート的な意味合いをもっていた。当然、ブログのなかに金銭的な価値のある知識が十分に流れることはあまりない。
ここでブログは当然多様に見えるようになる。マス的な部分についていえば、マーケティングな統計的な手法で分析可能だ。さらに、一部のブロガーを使って扇動的に消費傾向を巻き込むようにも企画されつつある。
他方、イスタブリッシュな知性からすれば、マス的な世界は当然として、コアのあるいはプリミティブなブログシーン(はてな的なブロガー)も、知性的に劣る部分、あるいは啓蒙の対象くらいにしか見えない。新書など啓蒙書のマーケット対象となりうる(そうした書評エントリが実際に受けている)。ブログなどくだらないというのは、知的な水準で見ればそのとおりでもあるだろう。
ここでこれらのイスタブリッシュな知性の素性を顧みるのだが、日本の言論の構図では常にいくつかの派閥的なジャーナリズムや出版界に事実上従属していた。知識人は、ジャーナリズムの限界やそれを越える知識を持ちながら、ある種のコードを出ない。また、そのコードが事実上、金銭的な知識のマーケットを意味していた。
これに対して、プリミティブなブログシーンは、しだいにそうした枠組みを自然に超えつつある。マスの動向やマス操作的な情報にも自然に警戒的だし、知性に対しても、それが知的であるとされる既存社会コードから、より身近な問題について真摯に対応しつつある。理由は、彼らが毎日ブログをしているからだ。ブロガーは、コメント欄やトラバ、SBMなどの明示的なコミュニケーション関係よりも、各種の小さな島のような各種のブロガーが発する話題・関心の流れのなかで、常に小さな自己が表出的に問われるように思考している。その結果としての表出は知的ではないかもしえれないが、アクチュアルであるし、この過程から見てもわかるように共同体志向的である(この共同体的性質はおそらくある種のセンスあるいはリテラシーとして結実しつつある)。
そして、そのようなブログシーンに人が存在する条件は、単純に、毎日と限らなくても、ほぼ毎日ブログしていることである。そうではないマスや知識人は、日々のブログの流れが読めない。だが、ブログの流れが読めない人がブログをマスや知識人市場で語ることが多く、それはブログの内側の感覚からは異和感のようにしか受け取れない。
ブログのなかで生きている……それはネットの中に生きているというのではない……という感覚が一定数産まれるなかで、それが非知的に見えても、具体的な生活に根ざした思想という点でもっとも本来的な思想活動になりうる。思想とは現実の「私」の生きがたさからしか発しないし、それを発して受け取る人の運動(「私」を具体的に越えていくこと)のなかでしか生き生きと現れえない。
むしろ知的とされている世界の側は、戦後の歴史を見てもわかるように、時代が過ぎ去れば跡形もないか、あるいは特定のイデオロギーから党派的にまとめられているにすぎない。
失ったものと過去
半年くらい前だろうか、この日記で一回、二回、自分は過去を悲しんでいる、つまり、無を悲しんでいる、と書いたことがある。
過去は無だ。それはもうない。
でも、過去があって今の自分があるとも言えないわけでもないし、過去とは今のすべてだとも。
過去を悲しむというのはどういうことなのか、奇妙な倒錯感がある。過去を取り戻したい、やりなおしたい、過去のあの時点には希望があったに、といった。
まあ、それはそれ。
今日ぼんやりと、失ったもののことを思った。私は失ったものは忘れてしまうタイプの人らしく、具体的になにかを失ったということを考えたわけではない。あるいは、失われてしまったということだろうか。
思ったとおりに書くと、若い感覚はけっこう今でも実はあるが、若さというものはもうない。心や身体を若々しくということはある程度できないことではないのだろうが、若さというのは要するに時間だ。私はその時間を食い尽くしてしまったし、その食い尽くしてしまったという意味はそこで喜びと悲しみの果実を食ったということだ。もう食ってしまったのだから、なくなった、ということだ。いや、それが身になったというか。いや、得たものもきちんとあるのだ。
村上春樹のプールサイドという小説だったか(以前にもちょっと書いたが)35歳の男の心を描いていた。心というよりもっとふかくぞっとする小説なのだが。私の、今の文脈だと存在が失われていくという感覚だろうか。それらはすべてすんでしまって決定的であり、そして無ですらある。
それと、今日はなんとなく先駆的に、たぶん私の残された未来の時間の無に侵食されているようすも思った。
うまく言えないが、finalventとかガギだろみたいなハンドルで文章で登場して4年。長い期間でもあったし短い期間でもあった。よく生きていられたなとも思うし、最近は水泳なんかもしてまるで健康じゃねーの俺みたいにもなってきた。なんとなく脳天気にまだ生きていそうな気になってきたが、どこかで無理はあるだろう。
今日の水泳
なんとなく4種を順番というわけではないが均等に泳いでいた。クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ。どれも、同じくらいにできる。平泳ぎが、ストロークを限りなく遅くできるので楽といえば楽だ。
バタフライもだいぶ力が抜けてきた。手を掻くときなどあまり力が要らない。キックも胴体からだいぶ打つようになってきた。もうちょっと推進力が出せるといいのだが、そのあたりの関連するウェーブの深度が今一つわからない。
クロールはローリングを入れたり抜いたり。抜いたほうが速度は出るな。ただ、かなり低速にしたときはローリングを入れたほうが息継ぎが楽だ。
背泳ぎは、無理かと思っていたのだが、2ビートができる。それで楽かというとまだフォームが完成しないが、脚がばたばたということはなくなった。
歳のせいかどれでも50mを泳ぐと少し息が上がる。ただ、リカバーも早くなった。
自分がなんというか水のなかを生きている。そんな感じがまだ楽しい。