毎日社説 中国全人代 成長より安定が優先する

 上滑りのええ塩梅にちょっと微笑んだ。現場の記者さんに社説を書いてもらったほうがいいのに。
 ⇒極東ブログ: 胡錦濤政権はたぶん国内格差を深めるだけだろう
 ⇒極東ブログ: 胡耀邦名誉回復の背後にどんなパズルが潜んでいるのか
 ⇒極東ブログ: 胡錦涛政権の最大の支援者は小泉元総理だったかもね
 ⇒極東ブログ: 人民元と香港ドルの逆転とか

34歳の踏ん切り

 まいどこんなことばかり書いているのでなんだが、ちとあるエントリを1つ2つ、それといただいたコメントを読みつつ、思った。34歳の踏ん切り。
 34歳というのは自分の思い入れなんで特に説得力はないだろう。ついでにいうと、人がかろうじて自立というか自分たりえるのは27歳。もちろん、男女差や人によって違うのは当然として。
 いわゆる「失われた世代」については、率直に言ってよくわからない面がある。この15年くらい日本の景気が普通に順調ならきちんと雇用され家庭ももてただろう人は、数として推定すれば少なからずだろう。そして、日本の経済の舵取りは間違っていたと言っていいのだろう。まあ、それはそうだろう。
 ただ、済んだことは済んだことだ、ということと、人は自身の立場に立つと数として生きるわけではなく自分で生きるしかない。運命というか不運というものはある。他人の幸運がうらやましくも思うし、なぜ私が不運と社会に怨嗟の声を上げたくなる。それもそうだろう。
 ただ、人は自分一人で死んでいくものだ、とまで割り切れるものでもないが、どこかで他人の生き方を了解しつつも、踏ん切っていかなくてはならないときがある。ま、それが34歳ではないかな、と。
 一流企業に勤めていてもやっていけない、あるいは不運が本質を暴露してしまう。あるいは離婚して途方に暮れる。そうしたものは、私の人生経験では、あらかた34歳で一応在庫整理になるみたいだと思う。
 他人の生き方は他人の生き方である。もちろん、それを理解し、評価してないと社会には生きられないのだが、そういう人生から内面は降りてしまってもいいのだろうというか、いったん降りてみるしかないことはある。
 そうしたとき、誰かあるいは運命みたいのに、背中をドンと押されるとわかることもあるし、大病しちゃうこともある。
 個人的には世界の果てに立ってみるといいかなとは思う。もちろん、自分でそこが世界の果てだと思うところでいい。少なくとも、そこでこっそり死んでも一ヶ月くらい誰も知らないあるいは永遠に知られないようなところなら。私の場合は、それはたいていは海だった。断崖絶壁。ああ、死んでもいいんだな、そして人という存在はけっこう気の迷いで死んでしまうものだな、そして今死なないのはそれでも死が怖いことやいろいろな思いがかろうじてあるからだろうな。夕飯にはまたあのカルボナーラを食いたいなとか。
 断崖からとぼとぼと長い田舎道を引き返し、石造りの街に入るとき、灰色のシスターが前を歩いていた。なんとなくシスターの歩きぶりに関心を向けていたのだが、ふと路地を曲がった。あのシスターはどこへ行くのだろうと思った。人がこの世界に生きているのだなと妙に思った。奇妙な映像のような光景だった。
 ま。
 とはいえ、人によっては踏ん切りなんてものもなく、すいすいと生きていくこともある。人の生き様はいろいろなので、あまりこうしたことは言えたもんじゃないのだけど。

ネットをやっていると理解しづらい憎悪を向けられることがある

 わかるようでもありなぜだろうと思うこともある。
 お前だってそうだろとか言われそうでもある。たとえば、私がきっこを憎悪していると思っている人だっているだろう。誤解だよといっても通じないのでその件は突っ込まない。また、お前は旧左翼や労組を憎悪しているだろうと言われるなら、そうかもしれない。なので、そのあたりのイデオロギー信奉者から憎悪されるのは宇宙の均衡というものかもしれない。ただ、なんかずれているんだけどな。
 ただ、総じて見ると、憎悪の理由がわかり憎いことはあまりない。少し考えるとだいたいわかる。というか、いくつかの理路で考えると単純な結論がでるけど、そんな単純なことで憎悪されているのかと不審に思うことは多い。たとえば、私はブログにアフィリエイトを使っているがそんなことで憎悪感を向けられることがある。まさかぁと思うけどどうもそうみたいかなと思うとき、ちょっと唖然とする。また、私が南京虐殺否定論者だあるいは本心ではそうに違いなとして右翼だと憎悪されるされることがある。まあ、そのかたのほうが私の本心を知っていらっしゃるのは20世紀の左翼の残虐史を考えれば当たり前なんだけど。また、お前なんか馬鹿馬鹿とか言ってくれる人がいるが、私は馬鹿なのになにを勘違いされているのだろう。というか、どっかで私が頭よいと思っていらっしゃるのか。
 しかし、そうはいっても、憎悪は愛情と類型のものである。
 とすれば、お前の左翼嫌いは旧左翼が好きなのかと言えば、そうだよ。私は、戦後民主主義のなかできちんと生きてきた。ただ頭が悪いので検証しつつそうなっただけのことだ、というのはある。

牛過窓櫺

 無門関 第三十八則 牛過窓櫺というのがある。

五祖云く、譬えば水こ牛の窓櫺を過ぐるが如き、頭角四蹄都べて過ぎ了るに、甚麼としてか尾巴過ぐることを得ざる。

 漢文的には二つの分かれる解釈があったかと思うが、通常は、「水牛が格子窓を通り過ぎるようなものだ。頭も角も足も4本全て通り過ぎたのに、なぜ尻尾だけが通り過ぎることが出来ないのか」 ということ。二解は格子戸の隙間ではなく格子戸の向こうとするのだったのか。
 ただ、禅味としては、格子戸の細い格子を水牛がすり抜けたのに、尻尾が抜けない、としてよいのだろう。
 なぜか?
 ということで公案の難問中の難問。
 私はこれは、昨日だったか書いた、人は己を知ることができない、というアポリアとして受け取った。己の尻尾、欠点、隠された欲望、そうしたものは、他人からは水牛の尻尾のように丸見えで、しかもそこだけが人生のひっかかりになって、生きがたくもがかせている。
 人は頭でなんとかなる難関は水牛が格子を抜けるようにやりおおせることができるが、その欠点だけを抜けることはできない。
 私はこの問いは、そこを、尻尾を抜けようとしている、人の愚かさを知ることがまず前提なのだろうと思う。
 尻尾は、思索しても、抜けない。
 もっとも、では抜ける方策はと当然なる。
 で、この答えは、いわゆる書かれた言葉してはないだろうし、およそ、抜け出ることもないだろう。
 にも関わらず、この尻尾にある程度踏ん切りというかを付けなくてならない、そのあたりが、禅に問われていることだろ。
 あえて踏み込むと、それは運命というか天命というかそういうものがその人に与えた苦しみや悲しみといったものではないかと思う。人の心はそれに抵抗して自我を形成するから、尻尾ができる。
 でも、その尻尾こそがその人がそのポジションに存在する意味でもあるのだろうし、魚は池にいてその尽きるところを知らずとなるのだろう。

朝日社説 株主パワー 対話なき経営は失格だ

 外資の攻勢に神経をとがらせ、買収防衛策や経営統合などに走る経営者は増えている。だが、株主への気配りを怠れば手痛いしっぺ返しが待っている。そのことを忘れてはならない。

 と言いつつ、三角合併、というタームは出さない、と。

でも、ごく僅かに

 ⇒鏡に映らない女たち、リサ・ノワクと三橋歌織 (セックスなんてくそくらえ)
 noon75さんはブログを止めたのかと思っていたので、へぇと思った。

女でありながらこの欠損を理解することは困難であるということを、けして頭も悪くはなかっただろうと思われるこの二人の女たちは、示唆しているように思える。女はよく鏡を見る。だがそこには何も映ってはいない。

 私はそれは欠損でもないし、鏡に何も映ってないとも思わない。
 同じ話題は⇒極東ブログ: ゴシップ的な米国発の女性ニュース二つ
 というわけで、私の扱いは限りなく薄い。
 薄いけど、まあ、言いたいことは言ってあるので、おしまい。
 露骨に書いてもいいのかもしれないけど、なんかしない。増田にも書かない。
 でも、ごく僅かに。

cover
樹下の家族: 干刈 あがた

 美智子さん、その朝<今が大事なとき。今日は行かなければならない>と言って出かけて言ったという美智子さん。私はどこに行けばいいのでしょうか。
 いいえ、私はわかっているのです。女は、私は、全身女になって、<おねがい、あなた、私を見て。私が欲しいのは、あなたなの>と叫べばいいのです。美智子さん、私の前にもう一度、そう叫ぶ知恵と勇気のブルー・フラッグをはためかせてください。

 私は心情的には団塊世代にあると言えるので、なんど読んでも、ここで泣く。
 ⇒樺美智子 - Wikipedia

樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日 - 1960年6月15日)は、1960年の安保当時、東京大学文学部学生であり、安保闘争で死亡した最初の大学生。

 ⇒干刈あがた - Wikipedia

干刈あがた(ひかりあがた, 1943年1月25日-1992年9月6日)は、日本の小説家。東京都出身。全共闘世代の女性の青春と、結婚、離婚、子育てなど、社会や家族との関わりについて、鋭い同時代性を持って描き、読者の大きな共感を得た。また、両親の出身地である奄美諸島郷土史研究家でもあった。約10年ほどの作家生活の後、49歳で夭逝。