日経社説 厳しい制裁で北朝鮮に核廃棄を迫れ

 98年のインド、パキスタンの核実験で揺らいだNPT体制は、北朝鮮の核実験によって一層動揺する。北朝鮮のような経済状況の国が核兵器を持ち、国際社会が一致して圧力をかけても、それを廃棄させられないとわかれば、核拡散を止められなくなる。核戦争への敷居は低くなり、世界はさらに危険になる。

 NPTって実際には日本のためにあっただけど、日米同盟再編成で不要なので、さて、どこまでこんな議論を日本の知識人はひっぱるのか。

読売社説  [北朝鮮核実験]「『危険な新たな核の時代』だ」

 なにを主張したいのかわからない。
 六カ国会議はこうなると事実上北朝鮮政権交代を前提としてしまったのではないか。つまり、中国様、や・れ・よ、か。
 ただ、米国は北朝鮮がこの手のヒールでいてほしいし、韓国がそれに加担するのも事実上計算のうえ。ただ、日本を壊滅させちゃうと世界経済もアウチだし、中国への牽制体制も維持したい。つうあたりの妥協線を模索。
 で、米国の政権が民主党とかになって、ええいまた北爆だとかやるかもしれないのが米国の根本的に救えないところ。

朝日社説 北朝鮮の核実験 暴挙に強く抗議する

 中国様おはよう、飯食ったか?かなと思ったら、違った。なんだこれ? これ中国様? 台湾の核化がいやよんの本音が入っているからそうなのか?

 チャンスがまったくなかったわけではない。最初の危機ではカーター元米大統領が電撃訪朝し、米朝枠組み合意を生み出した。日本や韓国も軽水炉北朝鮮に造るのに協力することになり、「核を持たせぬ交渉」は成功したかに見えた。

 このとき米国は事実上北爆決定したいたのな。しかもこのこの「成功」が実際には北朝鮮に猶予をあたえてしまい失敗。歴史認識が逆。

 北朝鮮の問題はもとより、6者協議に参加した日本や米国、韓国、中国、ロシアの思惑がバラバラで、切迫感が十分ではなかったとも言えないか。とくに打開の鍵は米朝協議だったのに、この事態を招いたブッシュ政権の責任は重い。
 なぜ北朝鮮核武装に突き進んだのか。核を持たなかったイラクフセイン政権の末路は、反面教師として映ったはずだ。経済建設をめぐる韓国との「体制競争」に敗れ、それでもなお体制を生き残らせるために選んだ道なのだろう。

 つまり金さんのいうように米朝二国間会議をせよと、しなかったブッシュはだから責任が重いと。
 リビアのこと朝日新聞様はご存じない?
 ま、どうでもいいけどこれが中国様のご意見だったらレベル低くて外交ってものが成立しないが。

ようつべ買収だが

 まあ、よくわからんといえばそうだが、気になることをメモ。
 端的に言うと、Google Vedeoって失敗したわけですよね。その失敗はGoogleの経営だった、と。ほいで、ようつべ買収は成功、マンセーってことなんすか、ってあたり。
 Youtube側としてはもとから買収ビジネスでやっていて、どっかでGoogleが視野に入っていたのだろうと思う。っていうか、やつらノリが同じだし。
 あと、これでFLVベースなんだがAdobeがwinwinに預かったけでもないあたりの落とし前みたいのは如何に。

みくしの株価だが

 一応鉄板になったのか。
 それにしても、この間、2ちゃんをふかして空売りやってやついないのかね。
追記
 インフォもらう。あんがと。
 ⇒猫蛙と編集犬のワンワンワールド - インディアン嘘つかない、mixi空売りできない
 へぇ。我ながら無知でした。

さすが、みたい、ですね

 自分で見てないので二次情報だが
 ⇒文化・【夕刊JanJan】「きっこの日記」書籍版、本日発売!

無いのだ。
 「きっこの日記」を一躍全国的に有名にした耐震強度偽装問題も、ホリエモンネタも、元首相のレイプ疑惑も、おそらく人気投票を行ったら上位に来そうな日記が一つもない。ほとんどが、きっこ氏お得意の俳句、MAX、芸能界やビンボーに関するネタの日記やエッセイばかりで、テレビ番組にメールやFAX送信をしかけたことや、ライブドア事件で殺害された野口氏の妻とのやりとりなど、ネット上で大きな話題になったことがひとつも掲載されていないのだ。唯一の政治ネタは、今年6月の共謀罪審議入りに関するもので、これが掲載されるのであれば、他にも山ほど掲載されるべきものがあったはずだ。
 本の最初の部分には、「この書籍は、オリジナルエッセイ8本を加筆し、WEB日記『きっこの日記』2001年〜2006年前半の中から、作者および編集部が傑作47本を抽出し、再構成しました」と書かれている。つまり、今回の掲載文は作者自らがベスト盤として選択したものだといえる。これは奇しくも上記のような注目された記事は、きっこ氏の作では無かったと言ってしまっていることにならないだろうか。

 訴訟リスクもだろうけど、たぶん、アンカーライターきっこ三十路が著作権ホールドで問題なく書いたのはその部分だけなんですよ、っていうか、そんなの昔のきっこの日記を読めばわかること。
 で、ちょっと勘違いされるかもしれないけど、ある程度文章がわかる人ならその一番基本的なところを読み落とすわけがない。つまりある程度文章が書ける人なら、きっこの日記のアンカーの同一性くらいはわかるはずだし、そんなことはそれほど問題でもない……と思うのですがね。
 
追記
 消された?⇒はてなブックマーク - 文化・【夕刊JanJan】「きっこの日記」書籍版、本日発売!
さらに追記
 コメント欄にてカテゴリの移動のインフォを貰う。ありがとう。というわけで、元のリンクを修正。

ブログと論壇誌メモ

いわゆる論壇誌について

 論壇誌について、私は定期購読ではないですが「文藝春秋」はほぼ毎月読んでいます。「中央公論」や「世界」はそのとき気になる記事があれば読みます。他の論壇誌も同じです。
 個人的な印象にすぎませんが、いわゆる論壇誌は私にはあまり面白くありません。読む前から結論のわかっているテーマが多く、短い記事は冗長になりがちであり、ある程度奥行きのある話を求めるならその書き手の著書や新書(たいてい存在する)なりを読んだほうが、情報の収集という点でも便利です。
 論壇誌が日本で存在している理由は、出版文化として社会問題について書ける人材を育てるということと、現在の出版界において、新書や新刊書の広告的意味を担っていることの2点ではないでしょうか。
 南原繁でしたか記憶によるのですが、東大の卒業生へのはなむけの言葉で、大学を出てから文藝春秋だけ読んでいるようではだめだと諫めたのは。時代は昭和三十年代でしょうか。戦後のある時期までは文藝春秋のようなものは知的階級の娯楽ではあっても論壇的なものではなかったように思われますし、それが時代の変化で論壇的なものに勘違いされたような印象があります。変化の背景としては、いわゆる論壇構成員が実際にはそれほど知的でもなく、また市場価値のために売れる言説が主導になりテレビの娯楽番組的なものに変質しているからかもしれません。内容の知的水準よりもそれが出版メディアとして面白ければいいじゃないかという方向に流れているだけかもしれません。この戯画の一例が「小林よしのり」の論壇的な漫画かもしれません。
 別の言い方をすれば、論壇が特定の知的階級のゲームであってもそれが知的影響やアカデミックな意義を持てばいいのですが、国際的な水準(「フォーリンアフェアーズ」など)では日本の論壇は評価しづらいように思えます。
 現在の論壇誌を書き手の側で支えているいわゆる論壇は、文壇などと同じで、特定のサークルの人たちが特定のコード(独自の言葉使いやルール)で語り合うボードゲームのようなものかもしれません。そのゲームが面白い人にとっては面白いのでしょうが、すでにそれが広い社会の意識から乖離していることは自明だと思います。刺激的な言い方になりますが、現在の日本の知的階級はある意味で社会への影響力を失ったオタク的なセクターであり、また大学の先生や講師といった知的な人々は実際には閉鎖的な権力関係や貧しい経済的な環境に置かれていて、そのルサンチマン(怨恨)が独自の論壇誌的なコードに拍車をかけているようにも見えます。
 私が好んで読む雑誌は、ニューズウィーク日本版(定期購読)、ステラ(定期購読)(これはここからNHKの番組を拾ってハードディスクレコダーに登録し時間のあるおりに見る)です。なかでもニューズウィーク日本版は薄く収納性がよく、記事もきちんと書かれているので好んでいます。AERAや読売ウィークリーなどと雑誌形状が似ているのですが、質がかなり違うように思え、私には面白くありません。
 論壇誌ではありませんが、オンライン系の論説では、ワシントンポストニューヨークタイムズテレグラフ、フィナンシャルタイムズ、サロンコムなど、これらをRSSで拾い読みします。全体的に論説のバランスがいいのはフィナンシャルタイムズです。
 些細ことですが、日本の論壇誌は書架などへの収納性も悪く、よほどのことがあれば切り出して保存するのですが結局そのまま捨てることになります。週刊誌の読み捨ての延長に論壇誌があるように感じています。

ブログと論壇誌

 ブログと論壇誌を比較するのは試みとしては面白い視点でしょう。従来の論壇は基本的に、一般社会から知的と見なされた書き手の場プラス出版物という商品(売れる言説)ということで枠取られていると思います。これに対してブログは、自分が知的であるということの結果的な表明でありこれは受け取り側の判断に任されます。また、売れる言説である必要性はないので、その存亡のラインは書き手のやる気にかなり委ねられます。また、ブログといわゆる出版物との差として、炎上や嫌がらせなど、独自の情報妨害や工作を受けることもあげられるでしょう。私はかなり攻撃を受けてきたような印象もありますが、攻撃している側が結果としてその工作的な意図の馬脚を露すことも多いので、そのあたりブログの運営では、ある程度忍耐強く受け身を構えを取ることも重要です。
 ブログの問題点でもあるのですが、出版物のようにカネが動くモデルとしてはできていないため、出版物に従属のプロモーション的なものに変化していく傾向もあります。2ちゃんねるから「電車男」が出たように、オンラインの「きっこの日記」から書籍の「きっこの日記」が出るというな、ネットやブログの出版のための手段化はしばらく進むでしょう。
 日本のブログで論壇的に興味深いものとして、経済に対する見方の特定集団である通称のリフレ派・インタゲ派の存在に注目しています。これらの知的な水準は従来の論壇以上であり、また論壇的な人も加わっているのでが、私の見る限り、実質的な経済政策への影響を持ちません。社会に広く関係する問題でありながら、ブログを活用しているのに社会全体への影響すら持っていないかのようです。リフレ派のようなブログで生息する独自な知的な集団・論壇というのが、今後どうなっていくのかはブログと論壇を考える上で指針になるでしょう。結果的に、社会という読み手とルサンチマン化した知的な対立の戯画の類型に終わってしまうかもしれませんが。

ブログを論壇として見ると

 ブログ上の出来事で最近印象に残っていることについてですが、二つあります。あまり具体的に言えない部分があるのですが、一つはオウム真理教の信者のブログなどネットでのの活動です。彼らがオウム真理教を今でも新メディアを使って強く宣伝しているという意味ではありません。オウム真理教の信者はある意味で知的な階層に所属しており、その活動と過去の出来事をどう取り組むのかどう市民と対話していくのか、そのあたりを日本のネット社会はどう受け止めていくのかという問題です。
 もう一つは、これは名指ししていいと思うのですが、「きっこの日記」に含まれるような社会デマ情報をブログでまき散らす現象です。「きっこの日記」は、社会正義的な言説の装いのもとにかなりのデマがばらまかれていると私は見ていました(情報源の明示がないのもデマの特徴です)。ブログにデマなり奇っ怪な情報なりが掲載されてもそれが閲覧者の少ない場合は問題ないでしょう。しかし、「きっこの日記」はデマの流布と閲覧者を増やすことが一体化されていましたし、それを実際に民主党の馬淵議員と連動して具体的な政治運動に大衆を巻き込もうとしていたため、私は恐怖と危機感を覚えました。
 ブログにはある種の自浄作用があります。私の意見がある方向に偏っていると強い批判や罵倒を受けます。これはある程度は受けなければならないものですが、「きっこの日記」はそのネット社会からの応答部分を隠蔽しており、いわばブログの偽物として現れていることに嫌悪を覚えます。しかし、そうした嫌悪感がどれほほど私の個人的な感性によるか、ブログの書き手に共有できるかは、はっきりと見えてきません。見えないままなのかもしれませんが、そのとき、今現在私が想定しているブログというものと随分と違ってしまったものだと考え改めるべきでしょう。

新訳Googleの創造性:9つの教訓

1. 着想というのは電波と同じピピピっ
  (Ideas Come From Everywhere)
2. カネでもなんでも貸してやれ
  (Share Everything You Can)
3. 狡賢いやつの陰で働こう
  (Working with Smart People)
4. 夢を追いたいなら先に資格を取ってくれ
  (License to Pursue Dreams)
5. バグ付きでごまかすのがイノベーションってもの
  (Innovation, Not Instant Perfection)
6. 数値だけ示して解釈を言うんじゃない
  (Data is Apolitical)
7. 創造性とは予算と残業に文句を言わないこと
  (Creativity Loves Constraint)
9. 利用者が大切だ、カネが大切だと言ったら負け
  (Users, Not Money)
10. プロジェクトを潰すより適当にごまかして継続せよ
  (Don't Kill Projects, Morph Them)

非モテ男の“優しさ”とは

 「非モテ男の“優しさ”」であるが、結論から言うと前提として「内面の繊細さ」を持ち、「男性と女性の関係の困難さ」と「人に理解されないびみょーな正義感」を自然にこなせる人ということになるだろう。
 モテる男の優しさと言えば直ぐに「男性と女性の関係の優しさ」や「私だけに与えてくれる優しさ」をイメージしがちである。実際、“男性と女性の関係の優しさ”だけが強い人目立つ人は、必ず何か裏があるものだし、女性だけに優しいというのは、モテたいという意識の表れ以外の何ものでもない。その優しさとやらはわざとらしくてとてもじゃないけど実行できないってんだバーロー。
 さらに“私だけに与えてくれる優しさ”は気心が分かり合えているという大きな勘違いだし、特に気のない人からこのような優しさを受けるとかえって引いてしまわワタシとか面と向かって言われてもう傷付くのなんかいやだ。
 と、このように“男性と女性の関係の優しさ”“私だけに与えてくれる優しさ”を意識しなくてもなにかと墓穴を掘って生きているので今更別にどうよである。優しさはべたに自己満だし、損得勘定で行う優しさをお見通しとかいう女性は勝手にしろなのである。
 一番大事なのは “「99人わからなくても1人理解してくれる寂しいこっ恥ずかしい優しさ」”がベースとして身についているかどうか。非モテという人のは、日頃から周囲に目を配り、心に余裕が感じられ、自然に優しい行動ができるわけなんかないので、とやかく言うな、うるさい。
 いくら彼女に優しくあっても、電車で老人に席を譲らない、転んだ小さい子供を気にかけないような男性でなくても、モテるやつはモテているのが現実である。