ブログと論壇誌メモ

いわゆる論壇誌について

 論壇誌について、私は定期購読ではないですが「文藝春秋」はほぼ毎月読んでいます。「中央公論」や「世界」はそのとき気になる記事があれば読みます。他の論壇誌も同じです。
 個人的な印象にすぎませんが、いわゆる論壇誌は私にはあまり面白くありません。読む前から結論のわかっているテーマが多く、短い記事は冗長になりがちであり、ある程度奥行きのある話を求めるならその書き手の著書や新書(たいてい存在する)なりを読んだほうが、情報の収集という点でも便利です。
 論壇誌が日本で存在している理由は、出版文化として社会問題について書ける人材を育てるということと、現在の出版界において、新書や新刊書の広告的意味を担っていることの2点ではないでしょうか。
 南原繁でしたか記憶によるのですが、東大の卒業生へのはなむけの言葉で、大学を出てから文藝春秋だけ読んでいるようではだめだと諫めたのは。時代は昭和三十年代でしょうか。戦後のある時期までは文藝春秋のようなものは知的階級の娯楽ではあっても論壇的なものではなかったように思われますし、それが時代の変化で論壇的なものに勘違いされたような印象があります。変化の背景としては、いわゆる論壇構成員が実際にはそれほど知的でもなく、また市場価値のために売れる言説が主導になりテレビの娯楽番組的なものに変質しているからかもしれません。内容の知的水準よりもそれが出版メディアとして面白ければいいじゃないかという方向に流れているだけかもしれません。この戯画の一例が「小林よしのり」の論壇的な漫画かもしれません。
 別の言い方をすれば、論壇が特定の知的階級のゲームであってもそれが知的影響やアカデミックな意義を持てばいいのですが、国際的な水準(「フォーリンアフェアーズ」など)では日本の論壇は評価しづらいように思えます。
 現在の論壇誌を書き手の側で支えているいわゆる論壇は、文壇などと同じで、特定のサークルの人たちが特定のコード(独自の言葉使いやルール)で語り合うボードゲームのようなものかもしれません。そのゲームが面白い人にとっては面白いのでしょうが、すでにそれが広い社会の意識から乖離していることは自明だと思います。刺激的な言い方になりますが、現在の日本の知的階級はある意味で社会への影響力を失ったオタク的なセクターであり、また大学の先生や講師といった知的な人々は実際には閉鎖的な権力関係や貧しい経済的な環境に置かれていて、そのルサンチマン(怨恨)が独自の論壇誌的なコードに拍車をかけているようにも見えます。
 私が好んで読む雑誌は、ニューズウィーク日本版(定期購読)、ステラ(定期購読)(これはここからNHKの番組を拾ってハードディスクレコダーに登録し時間のあるおりに見る)です。なかでもニューズウィーク日本版は薄く収納性がよく、記事もきちんと書かれているので好んでいます。AERAや読売ウィークリーなどと雑誌形状が似ているのですが、質がかなり違うように思え、私には面白くありません。
 論壇誌ではありませんが、オンライン系の論説では、ワシントンポストニューヨークタイムズテレグラフ、フィナンシャルタイムズ、サロンコムなど、これらをRSSで拾い読みします。全体的に論説のバランスがいいのはフィナンシャルタイムズです。
 些細ことですが、日本の論壇誌は書架などへの収納性も悪く、よほどのことがあれば切り出して保存するのですが結局そのまま捨てることになります。週刊誌の読み捨ての延長に論壇誌があるように感じています。

ブログと論壇誌

 ブログと論壇誌を比較するのは試みとしては面白い視点でしょう。従来の論壇は基本的に、一般社会から知的と見なされた書き手の場プラス出版物という商品(売れる言説)ということで枠取られていると思います。これに対してブログは、自分が知的であるということの結果的な表明でありこれは受け取り側の判断に任されます。また、売れる言説である必要性はないので、その存亡のラインは書き手のやる気にかなり委ねられます。また、ブログといわゆる出版物との差として、炎上や嫌がらせなど、独自の情報妨害や工作を受けることもあげられるでしょう。私はかなり攻撃を受けてきたような印象もありますが、攻撃している側が結果としてその工作的な意図の馬脚を露すことも多いので、そのあたりブログの運営では、ある程度忍耐強く受け身を構えを取ることも重要です。
 ブログの問題点でもあるのですが、出版物のようにカネが動くモデルとしてはできていないため、出版物に従属のプロモーション的なものに変化していく傾向もあります。2ちゃんねるから「電車男」が出たように、オンラインの「きっこの日記」から書籍の「きっこの日記」が出るというな、ネットやブログの出版のための手段化はしばらく進むでしょう。
 日本のブログで論壇的に興味深いものとして、経済に対する見方の特定集団である通称のリフレ派・インタゲ派の存在に注目しています。これらの知的な水準は従来の論壇以上であり、また論壇的な人も加わっているのでが、私の見る限り、実質的な経済政策への影響を持ちません。社会に広く関係する問題でありながら、ブログを活用しているのに社会全体への影響すら持っていないかのようです。リフレ派のようなブログで生息する独自な知的な集団・論壇というのが、今後どうなっていくのかはブログと論壇を考える上で指針になるでしょう。結果的に、社会という読み手とルサンチマン化した知的な対立の戯画の類型に終わってしまうかもしれませんが。

ブログを論壇として見ると

 ブログ上の出来事で最近印象に残っていることについてですが、二つあります。あまり具体的に言えない部分があるのですが、一つはオウム真理教の信者のブログなどネットでのの活動です。彼らがオウム真理教を今でも新メディアを使って強く宣伝しているという意味ではありません。オウム真理教の信者はある意味で知的な階層に所属しており、その活動と過去の出来事をどう取り組むのかどう市民と対話していくのか、そのあたりを日本のネット社会はどう受け止めていくのかという問題です。
 もう一つは、これは名指ししていいと思うのですが、「きっこの日記」に含まれるような社会デマ情報をブログでまき散らす現象です。「きっこの日記」は、社会正義的な言説の装いのもとにかなりのデマがばらまかれていると私は見ていました(情報源の明示がないのもデマの特徴です)。ブログにデマなり奇っ怪な情報なりが掲載されてもそれが閲覧者の少ない場合は問題ないでしょう。しかし、「きっこの日記」はデマの流布と閲覧者を増やすことが一体化されていましたし、それを実際に民主党の馬淵議員と連動して具体的な政治運動に大衆を巻き込もうとしていたため、私は恐怖と危機感を覚えました。
 ブログにはある種の自浄作用があります。私の意見がある方向に偏っていると強い批判や罵倒を受けます。これはある程度は受けなければならないものですが、「きっこの日記」はそのネット社会からの応答部分を隠蔽しており、いわばブログの偽物として現れていることに嫌悪を覚えます。しかし、そうした嫌悪感がどれほほど私の個人的な感性によるか、ブログの書き手に共有できるかは、はっきりと見えてきません。見えないままなのかもしれませんが、そのとき、今現在私が想定しているブログというものと随分と違ってしまったものだと考え改めるべきでしょう。