これだが

 これ⇒asahi.com:「百人斬り競争」訴訟、二審も本社などが勝訴 - 社会
 私はこれにほとんど関心がない。
 これというのはこうした問題を現代の裁判で争うということの意義について。
 あと、またうるさい連中がきゃっきゃいうのかもしれないけど、よく言われる山本七平の百人斬り競争反論だが、原典から離れてテンプレ化していて、まあ、ご勝手にという感じがする。あと、この件については、山本とは別にイザヤ・ベンダサン反論があるのだが、サヨクがこれを取り上げたのを見たことがない。山本=ベンダサンという前提と、山本の議論テンプレが反駁できたのだからということで、実は、原典が読まれていないのだろう。
 まあ、この件についても、それほど関心はない。

生前山本七平さんに

 二度お会いしたことがある。会ってどうというものでもないが。個人的にきいてみたいことがあってきいてみた。
 私が若いせいもあるのだが、その時の対人的な印象として冷っとした感じがした。その後、息子さんとの書簡なども読むのだが、息子さんや奥さんとの対話の言葉にも、あの冷っとした印象を覚える。言い方は悪いが、罪とか隠し事とかそういう大きななにかを心に抱えた人のように思う。
 あのころ、お会いしたころだったか、彼が統一教会とかでも講演をしていると聞いたことがある。よくわからないのだが、普通のクリスチャンならそこには行かないだろうというところでいろいろ出向いて説明をされていたようだ。そのことと、あの冷っという感じは私の心のなかでつながっている。彼はある理由があってというか、常になにか公に向かって立っていたように、今は思う。それを神というなら容易いのだが、そう言うことは言葉の遊びでしかないだろう。
 ネットで私が山本七平シンパなので、それゆえにきゃっきゃと批判される。私はイザヤ・ベンダサンの愛読者でもあるので、さらにそう。ただ、そうしてきゃっきゃと批判されると、というか、そういうふうにバッシングというか追い込まれるふうに言葉を投げられることで、むしろベンダサンの言わんとしていたことがよくわかるようになり、ぞっとした。
 おそらく通じないだろうが、私は山本もベンダサンもイデオロギー的にはまったく関心がない。彼らは思想家ではない。私は思想というのはそれとは別に考える。
 私はただ彼らの書籍を長年にわたり飽きもせず読みそこに描かれている人を感受し、自分に同化しているだけだ。つまり、それが私でもあるので、言葉で批判されても自己反省なりできるというものでもない。それは愛着のようなものもあり、そうした愛着は愚かしいといえば愚かしいのだろうが、そういうもんだとしか言えない。
 小林秀雄もそういうふうに読んだ。吉本隆明もそういうふうに読んだ。森有正もそういうふうに読んだ。人生の一面を学ぶということはそういうことしか自分には思えない。そして、これは冗談のように聞こえるのだろうが、そこにいつもイエスがいるのが不思議に思えた。

キリスト教、あれこれ

 信仰とかにはまるで関心がない。
 というか、西洋人も日本人も、宗教というのを、あるいは神というのを、自己の精神の側のパラメーターでどうなるかのような精神現象と見ているのだな、面白い人々だなという感じがする。まあ、率直に言えばということだが。
 聖書を自分なりではあるがよく読んだ。新約聖書旧約聖書のコンテクストをはずすと意味がなくなる。ので、旧約を自分なりではあるがよく読んだ。読んでわかったことは、神とは、そこから逃げ出したくなるようなものであり、罵倒の対象でもあるようなものだ。ヨナの物語は、人が神から逃げる物語だ。処世とは、そういうものだ。
 そしてそれらの物語の核心にあるのは、神が人を選ぶということであり、選ばれた人は神を罵倒してもまったくかまわない、そもそも迷惑なことだという当然の権利のようなものだ。ヨブの物語において神は不当ですらある。理不尽といってもいい。ヨブにはそう抗いたてる権利があり、神はそれをまったく是としている。
 そして、これらの物語において、神は人と議論してある意味で負ける。それどこか、最後には人としてこの世に裁かれて処刑されてしまう。神が全能であるなら、なぜ神は世によって殺されたのか?
 不思議な物語群だと思うが、神は負けることで人を屈服させている。ヨブの例でもそうだ、結果としてヨブが神に勝つとき、神にまさる義をヨブは得ている。ヨブの物語はヨブの義の戦慄すべき現れでもある。後代の愚かな加筆であろうエリフは神の義を人が語ることの恐怖を結果的に描き出してしまった。ヨブに義はないが非もないのである。ヨブの苦しみは非に結びつけられはしない。
 この世が理不尽であることから人の魂を救うのは世が彼を裁き勝利する最終的な根拠性を拒絶ことであり、ヨブ記において現れる神は、まさにそうした世のすべてを棄却することで、ヨブの魂が神に向き合うとこを可能にしている。

はてなQより 人力検索はてな - 私は27歳の男です。 ずっと早漏で悩んでいます。

ですので女性を満足させるために、その後こちらもお口や指で愛撫してあげて、そのうちにこちらが復活してからようやく挿入というパターンになります。それでも5分〜10分しか持ちません。
そこで気になるのが、新しい恋をしても、そのことが気になって、積極的に行動できません。初めてのときにすぐに果ててしまうのがとても恥ずかしいです。回数を重ねていって、上のパターンを相手が理解してくれるとこまでいけばいいのですが、初回〜2,3回目までが、顔から火が出るぐらいはずかしいです。
また、このまま年齢を重ねていって、毎回2回果てるのが体力的にきつくなってきそうで不安です。
さらに、ケンカや口論の際や、なにか偉そうな事を言う時など、「偉そうに、早漏のくせに」や「かっこつけてるなー、早漏だけど」などと思われているんじゃないかなーと考えてしまい、息子ともどもシュンとしてしまいます。 (´;ω;)
やっぱり女性の方はこんな男は物足りないでしょうか。
男女問わずみなさんからの意見を聞かせて下さい。

finalvent(枯れ過ぎ)からの回答:
 早漏は、たぶん、歳を取れば、直る。
 包茎は、たぶん、歳を取っても、同じ。

今日のひどいもんだなココログ

 ⇒元社長日記: NIftyさんに内容証明送ってみました

 これらの障害は性能的なことから起因しているとずっとナウンスされている
 性能的な障害っていうのは、要するにアクセス数に対してサーバの能力が追いついてないってことでしょ?

 集団訴訟かぁ。
 余談ですが、「能」がないと以下のようになります。

 これらの障害は性的なことから起因しているとずっとナウンスされている
 性的な障害っていうのは、要するにアクセス数に対してサーバの力が追いついてないってことでしょ?

 意味が若干変わります。
追記
 ⇒元社長日記: Niftyさんからお返事もらいました

慣例

・仕事が忙しくなると、ブログが炎上する。
・やらなくてはならないことが突然増えると、ブログが炎上する。
・奥さんが妊娠すると、ブログが炎上する。
・引越しの時期に重なると、ブログが炎上する。
・私生活がバタバタすると、ブログが炎上する。

publicとprivate

 文系的な議論だといろいろあるのだろうが。
 プログラム的に考えると、publicは外向きのリソースで、privateはクラス内とかに閉じている。
 つまり、インタフェースと機能の問題、というだけ、とも言える。
 ブログ論とかぶくま論とかこの手の話がはてなクラスに閉じているならprivate。それが外部に利用できるなら、public。
 というか、publicというのは、リソースということなのだろう。

そういえば……大久保とか歌舞伎町とか

 先日、行く機会があったのだが、変わったといえば変わったなと思った。
 外国人は増えているように思えたし、なんつうか、以前(10年前)なら、特定の民族対象で成り立つ店というのはあまりなかったようだが、最近はあるっぽい。
 歌舞伎町は、さすがにぽん引きが消えて、ふーんと思った。
 いわゆる風俗なんかも減ったような気がする。
 と、まじでホストクラブが多いので驚いた。なるほどねぇという感じである。
 ホストのお兄さんたちの写真がうーむそういうもんか的なのも心が和むというかなんというか。

最近無性に中近東料理みたいなのが食べたい……

 そんな難しいものではないだろうから、自分で作るかと思うのだが、さて。
 山羊とか羊とかのかたまり肉とか普通売ってないしな。
 あれをセロリと塩だけでぐつぐつ煮てもいいのだが(うまくはないよちなみに)。

文春・新潮とかのネタ

 こんな感じの⇒「そっとしておいて」…先月水死した彩香ちゃんの母親
 あまり見かけない。
 メディアの温度差みたいのも感じる。
 そういえば、きっこも最近は不発弾ばっかしか? それとも一部ではあのネタで盛り上がっているのか? わからん。
 わからなさ加減がフラットっつうことかもしれないが。