キリスト教、あれこれ

 信仰とかにはまるで関心がない。
 というか、西洋人も日本人も、宗教というのを、あるいは神というのを、自己の精神の側のパラメーターでどうなるかのような精神現象と見ているのだな、面白い人々だなという感じがする。まあ、率直に言えばということだが。
 聖書を自分なりではあるがよく読んだ。新約聖書旧約聖書のコンテクストをはずすと意味がなくなる。ので、旧約を自分なりではあるがよく読んだ。読んでわかったことは、神とは、そこから逃げ出したくなるようなものであり、罵倒の対象でもあるようなものだ。ヨナの物語は、人が神から逃げる物語だ。処世とは、そういうものだ。
 そしてそれらの物語の核心にあるのは、神が人を選ぶということであり、選ばれた人は神を罵倒してもまったくかまわない、そもそも迷惑なことだという当然の権利のようなものだ。ヨブの物語において神は不当ですらある。理不尽といってもいい。ヨブにはそう抗いたてる権利があり、神はそれをまったく是としている。
 そして、これらの物語において、神は人と議論してある意味で負ける。それどこか、最後には人としてこの世に裁かれて処刑されてしまう。神が全能であるなら、なぜ神は世によって殺されたのか?
 不思議な物語群だと思うが、神は負けることで人を屈服させている。ヨブの例でもそうだ、結果としてヨブが神に勝つとき、神にまさる義をヨブは得ている。ヨブの物語はヨブの義の戦慄すべき現れでもある。後代の愚かな加筆であろうエリフは神の義を人が語ることの恐怖を結果的に描き出してしまった。ヨブに義はないが非もないのである。ヨブの苦しみは非に結びつけられはしない。
 この世が理不尽であることから人の魂を救うのは世が彼を裁き勝利する最終的な根拠性を拒絶ことであり、ヨブ記において現れる神は、まさにそうした世のすべてを棄却することで、ヨブの魂が神に向き合うとこを可能にしている。