生前山本七平さんに

 二度お会いしたことがある。会ってどうというものでもないが。個人的にきいてみたいことがあってきいてみた。
 私が若いせいもあるのだが、その時の対人的な印象として冷っとした感じがした。その後、息子さんとの書簡なども読むのだが、息子さんや奥さんとの対話の言葉にも、あの冷っとした印象を覚える。言い方は悪いが、罪とか隠し事とかそういう大きななにかを心に抱えた人のように思う。
 あのころ、お会いしたころだったか、彼が統一教会とかでも講演をしていると聞いたことがある。よくわからないのだが、普通のクリスチャンならそこには行かないだろうというところでいろいろ出向いて説明をされていたようだ。そのことと、あの冷っという感じは私の心のなかでつながっている。彼はある理由があってというか、常になにか公に向かって立っていたように、今は思う。それを神というなら容易いのだが、そう言うことは言葉の遊びでしかないだろう。
 ネットで私が山本七平シンパなので、それゆえにきゃっきゃと批判される。私はイザヤ・ベンダサンの愛読者でもあるので、さらにそう。ただ、そうしてきゃっきゃと批判されると、というか、そういうふうにバッシングというか追い込まれるふうに言葉を投げられることで、むしろベンダサンの言わんとしていたことがよくわかるようになり、ぞっとした。
 おそらく通じないだろうが、私は山本もベンダサンもイデオロギー的にはまったく関心がない。彼らは思想家ではない。私は思想というのはそれとは別に考える。
 私はただ彼らの書籍を長年にわたり飽きもせず読みそこに描かれている人を感受し、自分に同化しているだけだ。つまり、それが私でもあるので、言葉で批判されても自己反省なりできるというものでもない。それは愛着のようなものもあり、そうした愛着は愚かしいといえば愚かしいのだろうが、そういうもんだとしか言えない。
 小林秀雄もそういうふうに読んだ。吉本隆明もそういうふうに読んだ。森有正もそういうふうに読んだ。人生の一面を学ぶということはそういうことしか自分には思えない。そして、これは冗談のように聞こえるのだろうが、そこにいつもイエスがいるのが不思議に思えた。