産経社説 ぶれない指導 いけないことはいけない
また、無茶苦茶な。
毎日社説 サマワの自衛隊 安全な撤収への準備怠るな
毎日新聞はなぜこれにこだわっているのか? 裏煎餅?
朝日社説 社会保険庁 あいた口がふさがらない
これってみんな知ってたことでしょ?
っていうか、それまでOKだったのでは?
関連⇒大阪社保事務局幹部ら不正黙認…「法令違反と思わず」 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
同事務局によると、不正な手続きは、府内21か所の社会保険事務所のうち16か所で行われていた。不在がちで戸別訪問でも接触しにくい未納者の免除手続きを進め未納率を下げるため、各事務所が互いに情報交換する中で広まったという。
バーナンキ僧正、は・ず・し
⇒FRB議長が謝罪、個人的コメントで市場混乱 : 経済ニュース : 経済・マネー : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
「私の判断の誤りだった。公衆や市場との対話は今後、必ず通常の公式なチャンネルを通したい」
米連邦準備制度理事会(FRB)のベン・バーナンキ議長は23日、米上院銀行委員会の公聴会で、女性テレビキャスターに個人的に語ったコメントが市場を混乱させたことについて、神妙な面もちで陳謝した。
⇒Sankei Web 経済 「判断を誤った」 米FRB議長が公聴会で反省の弁(05/24 09:19)
米連邦準備制度理事会(FRB)のバーナンキ議長は23日、上院銀行委員会の公聴会で、「判断を誤った」と議長として異例の反省の弁を語った。
人間だれにも過ちはあるものよのぉ by finalvent(枯れ過ぎ)
おまけ⇒極東ブログ: バーナンキ祭の後
ホリエモンは……
⇒livedoor ニュース - 堀江被告、心境を文書で公表
こういう人なんだろうな。
こういうのもなんだが、ちょっとワロタ。
御巣鷹参拝の心情を思うに、選挙立候補もそれほど裏の陰謀があったわけでもないのだろう。シンプルなものはシンプルに考えるという人なのではないか。
それはそれとして。
結局、ホリエモンの後ろにはなにがあったのだろうか?
いや、亀甲のような目眩ましスキームではなくてだね。
ちらちらとほの見える気持ちの悪いもの。
ブログなんてものも好事家のものであれば平和であったな。あるいは、佐々木俊尚さんがいうようなフラットものであたったり、いわゆるfinalventさんが言うような無名の人の沈黙のうなづき……みたいなものであれば……それはそれでいいのだろう。
日本とも限らないが、政治というのは、大きな流れというものがあり、それはきちんと西洋哲学みたいなものを学べば(自分がきちんと学んだというものでもないが)、あるいは一定の教養があれば、大筋は見える。イラクの問題にしても、世界史の局面というものは、それを放置するか、旧来の手法で扱うか、対決するかと、まあ、いろいろあった。ごりっと押すことがよかったかはわからない。だが、おそらく3の選択は大きな流れの中にあるだろう。その流れは、ヨーロッパを変えた、それから米国を変えつつある。
日本と限らないが、プレーヤーが少ないというなら、つまり、局所の力を持つ者がプレイできるというなら……なるほどそれは陰謀論的な思索を誘うし、そうしなければならないときもある。慎重に限りなく疑念をもって触れていかなくてはならないのだが、往々にして陰謀論はそれ自体の甘美な世界観に変わる。世界を理解するツールとしての陰謀論あるは問いのソリューションとしての陰謀論とは、おそらく先験的に誤りであろう。だが、陰謀論は問いでとどまるなら、それはそれなりのツールでもあるのだろう。ただ、それがツールであるためには、プレーヤーでなくてはならない。
ブログは、そして順繰りに戻るのだが、だからこそパンピーなツールでもあるのだろう。そうすると、先の呑気な希望論に戻る。
話は飛躍するが、たぶん差異は友愛と公的な痛みにある。そこがどうブログに展開できるのだろうか。
ある民族が別の民族を
ジェノサイドする可能性は常にある。そこから免れる民族はないという前提に私は立つ。私はそこを免れるような理想論には立たないし、その理想からの断罪など屁とも思わない。理想とは世界においてそれが正義という言説にあるかぎり画餅に過ぎない。
人がすべきことはなにか。ジェノサイドを見逃さないこと。あらゆる小さなジェノサイドの可能性を減じるべく現実の対応を取ること。
知は人を押しとどめない。人を押しとどめるのは、愛であり、愛は最初にあるのではなく、小さく積み上げていくものでしかない。義を語るものが愛を積み立てていないなら、その義自体が毒になる。
クリスチャンであることというのは……
社会の建前とその人の生涯の意味というのでは違う。たぶん、その人の一生のなかにイエスというものが表れているなら、その生涯の終わりをもって彼/彼女はクリスチャンであったことだろう。もっとも、そういう見方を私は人と共有しようというわけでもない。
人の一生のなかにイエスが現れる。刻印のように現れる。そういうことがある。そういう奇跡のような人がいるということはイエスが復活したという神話的な理解でもあるだろう。なぜそんなことが起こるのかわからないし、おそらくそれは個々人の内面の信仰やその手だてとはまったく異なるなにかなのだろう。
その意味で。
洪思翊はクリスチャンではなかったか。少なくとも私の生涯のなかに見える彼の姿は、歳を取るにつれて、イエスのそれと重なっていく。彼は語らず、我々の罪を負って、この世というものに処刑された。
もし、神というものが存在し、それが義であるなら、なぜ神は洪思翊を捨て置いたのか。人生とはそんなものだと私はよく言うし、私はそれを処世のプラクティカルなコンパスとしている。
むしろ、逆に、洪思翊の義を捨て置かない人が現れたらどうであろうか。なにがその人をその行為に立たせたのであろうか。
平和で富裕な時代に50年も生きていると
本が貯まる。カネでも貯まればいいのだが、そうもいかない。
私の場合は、本だったが、人によっては、プラレールかもしれないし、DVDとかヴィデオテープとかかもしれない。
貯まるそうしたものは、「私」が愛着を持っているからで、「私」がいなければゴミだ。もちろん、よいコレクションというのはそれなりの社会的な価値があるだろうが、まあ、概ねゴミとしていいだろう。
私が愛着を投影した物たちと私はそう遠くなく別れを告げるものであるし、そのあたりの区切りを少しずつつけておいてもいい。
誰か読めば利するところもあるかもしれないというような本の期待は所詮は我執だろう。
よく本を捨てた。また捨てた。
人生至る所に告悔あり
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2006年05月24日 gotanda6 あーおれだぁ。