読売社説 [中国5か年計画]「難題の克服には遠い処方箋」

 新計画が目指す社会保障制度の整備にしても、課題は多い。特に農村では、医療保険、年金保険などの加入率は1割前後に過ぎない。しかも、実施は地方政府任せだ。都市部を含め、中国の社会保障制度はいまだに試行段階のレベルだ。

 核となる問題は籍ではないか。

虐殺者数考察は難しい

 たとえば⇒愛・蔵太の気ままな日記
 よく調べていると思う。
 特に重要なのは、総数ではなく、分布だ。
 地域にロケートし、その状況を積み上げていく作業が必要になる。
 沖縄では、沖縄戦での被害について、せっかく現地にいるのだから、自分なりに分布を考えた。結論はわからないのだが、わかる部分もあった。とても口に出せない。いくつか仮説もあり、うちなーんちゅに聞いてもみた。とても難しい。
 平和の礎が死者名を刻んでいるのだから間違えないだろと思うかもしれない。そして、あれを批判することはつらい。
 そこまでして真実を知る意義があるのだろうかと途方にくれた。
 南京虐殺についてはもう素人がタッチできない迷宮と化している。秦のいう4万人あたりが妥当な史的考察ではないかと思うが……むずかしい。

歴史の感触

 つげ義春のどの漫画だったか、河川敷近くに暮らす朝鮮人が出てくる話、なにかめでたいことがあるから、とっておきの雷魚を食おうという話だった。
 あの漫画のもつ独自の歴史の感触というのがある。
 あの感触がない人に言っても無駄なことというのはある。
 しかし、それを言うなら、すべて歴史が無駄になる。
 ちょっと調べてみた。
 これの第11話/近所の景色だったか⇒「ヨシボーの犯罪小学館叢書―つげ義春作品集: 本」

トラジ、トーラージ♪

 ⇒極東ブログ: トラジ、トラジ
 昔、実家には、漆塗りの盆の飾りがあり、絵柄は長髪の朝鮮人少女が後ろ向きにブランコに腰をかけているものだった……と記憶する。
 レコードがあった。アリラン、トラジ。
 よく聞いた。

五木寛之の語る戦中の歌……

 ラジオ深夜便でやっていたもの。
 昭和十七年、十八年ころの流行歌を聴くのだが、どうも私の感覚では戦後のものだと思っていたのが多い。
 五木も、え?とリアクトしていたが「鈴懸の径」は昭和十七年だったそうだ。
 ⇒「鈴懸の径〜メモリアル・ベスト・: 音楽」
 そういえば、以前テレビで上海の老人ジャズマンの演奏を聴いたことがある。

韓国海苔の思い出

 父のいとこのおじさんの家に行ったことがある。あれは小学生のころだ。何年生だったか。
 おじさんは父より何歳年上だったか。強い日本兵だったというとおりの、海入道みたいな感じの人だが、奇妙なひとなつこさがあり、きれいな奥さんと娘さんがいた。
 朝になると、おじさんが、海苔に胡麻油を塗って塩をふったものを丹念に作って出してくれた。父に懐かしいだろと言っているのだが、父にはあまり記憶がないようでもあった。父はああいう海苔は食べてなかったのだろう。
 私は子どもながらに、これはうまいなと思った。
 そういえば、父方にはどの家にも立派な朝鮮人参酒があった。いまでも実家にあるか。あの文化はなんだろうか。
 おじさんはそれから間もなくぽっくり死んで、娘さんの嫁入りのときは私の父が父親代わりをしていた。

finalvent氏はお人好しすぎる甘えちゃんだそうだ。

 ⇒gachapinfanのスクラップブック

finalvent氏のエントリは、こうした現実を無視した「お人好しすぎる甘えちゃん」の論ではないかと危惧する。

 別に、それでもいいよ。

虐殺なんてものはきわめて外在的に発生するものなのだから――たとえば心理学の成果のひとつはいかに環境が人の行動を左右するかということである――「内的に問う」必要はないし、虐殺の心理と環境はきわめて普遍的なものだ。

 これに二文字とか三文字でコメントを返さないところがお人好しすぎる甘えちゃん、ということ。

人間の尊厳とは……

 神に近くもなりうるし、悪魔に近くなりうることもできる……そういう自由をもつこと。
 そういう自由を人に見ないで歴史がわかるものか、ってか、わかるんだよな歴史が横行しすぎ。
 歴史学と歴史がたぶんごっちゃになっているのだろう。
 歴史学は学の方法論をもつ。方法論ゆえにその相関によって社会科学的たり得る。
 歴史というのは歴史学で覆われるものではない。
 が、そう言ってもむなしい。
 「弁名」において荻生徂徠が「道」と読んだもの……ま、いいか。と、投げやりなのは、それが問われる人生はそう多くもないし、問われなくてもよろし。
 問われた人間は、しかたないな、考えようかね。

では問うが

 あなた方はどれだけ関東大震災朝鮮人虐殺を知っているか?
 どれだけというのは、死者数である。
 死者数とは、どこの地域で、どのようにその人たちが殺されたかということだ。
 知っているのか。
 私たちが知っているのは、少なからぬ朝鮮人が虐殺にあったということだけではないのか。
 死者数もどのような地域でどだれけ殺されたかも、よくわからない。
 そして、祖父母・曾祖父母が、意図的に朝鮮人を虐殺したと、思うのか?
 私は、この虐殺は恥ずべき事だが偶発的なものであると思う。それ以上に祖父母・曾祖父母の罪を暴くべき対象ではないと信じる。
 もちろん、そうでないと言うこともありうる。が、そのためには、戦後のドイツ人のように、祖父母・曾祖父母の罪をきちんと暴いていかなくてはならない。
 そうしているのか?
  ↓

2006年03月05日 hazama-hazama 『[unko][寝言ポエム][春秋右氏伝]「日本はいつでも他民族・他国家よりマシ」というくだらねー言説の一角。朝鮮人虐殺において「略奪がなかった」ことが「事実」だったとしたら、「略奪」のない「虐殺」の方がよっぽど恐ろしい。』
2006年03月05日 kemu-ri 『同じ人が「締めは、「中国でも通州事件の日本人虐殺からまだ百年経っていないのだ。」としたいところ」と発言しているのはどういうことなのか。http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/kemu-ri/20060304/1141410831参照』
2006年03月05日 hidex7777 『[finalvent][これはひどい]』
2006年03月05日 bin3336 『被害者意識が人間をダメにする件について。』
2006年03月05日 umeten 『[これはひどい][歴史][差別問題][日本的なるもの]有名ブロガーが「日本人は悪くない説(イメージ)」を説いたので大喜びなコメント者多数』
2006年03月05日 odd991 『[言説][歴史][社会紛争]ネタだと信じたい。山本七平が出ている時点でアウトな予感。本気なら悪質なプロパガンダと言えそうか。』

 でなければ、日本民族朝鮮民族を下層階級に押し込め6000人も虐殺する民族であると朝鮮民族に記憶される。そういう民族間の歴史を刻むことになる。
 私は、それを避けるべきだと思う。
 しかし、それが事実ならそれはそれだ。その事実に向き合わなくてはならない。
 そうなのか?
 そうではないのではないか。でれば、そうした問題を持ち出さず民族間の軋轢を減らす努力こそが求められるのではないか。

ダルフール危機の制止ができずにルワンダの悲劇を学んだことになるのか

 個々人の倫理を問うことで、ダルフール危機(ジェノサイド)は制止できるとでも思っているのか。
 これを読んで⇒ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 - グッドナイト、ミュンヘン、ルワンダ、ヒストリー・オブ・バイオレン
 現状⇒極東ブログ: ダルフール危機がチャドに及ぶ
 関連⇒極東ブログ: ホテル・ルワンダをあと三百軒ほど
 トラバ代わりに⇒過ぎ去ろうとしない過去
 追記
 トラバ代わりに⇒■[思ったこと]続けて、賛成できかねます
 上の「極東ブログ: ダルフール危機がチャドに及ぶ」をお読みくださいな。