死の恐怖とか

 最近、うまく言えないのだが、死の恐怖が安らいでいる。
 世の中には、「死は怖くない」と豪語する人もいるし、その手のやからと死の恐怖の話をしても、そもそも現存在というのを考えたこともない人だと、話にもならない。なにか私が神経症的な恐怖に捕らわれているくらいにしか見られない。この手はもうけっこううんざりしている。
 死の恐怖というのは、ハイデガーの『存在と時間』で説明されるように、無への先駆というもので、これがどれほど恐怖かという存在論的な構図から、世人の「頽落」を描く。ごく簡単にいえば、世人が頽落している状態が、死の恐怖の存在論的な構図そのものなのである。くどいようだけど、「死は怖くない」と豪語する人は世人でしかない。
 「死の恐怖」というのは、しかし、存在論的な構図から、剥き出しのように実際的な恐怖にも変わることがあって、これは、絶叫するほど恐ろしいもので、まあ通じない人には通じない。
 が、Acimのせいなのだろうか、なにか根源的なところで薄らいできている。
 信仰というのも違うのだが、現在という時間が死=無に流れ込むというのは、ないんじゃないか。現在の時間そのものが霊的な人間にとって永遠なのではないか。肉体はただ、学びのために時間の装いとその必然的な帰結としての死をもっているだけなのではないか。
 そんな奇妙な感じがある。
 とはいえ、実際に死というか、私や病を抱えていて苦痛襲ってくると、なかなかそうもいかないのだけど。