たまたま読んだ

 たまたまという意外ないので、文脈とかないのな。よろしく。くさす気はないので、ピース。
 これ⇒意識の高い人追悼2012 - 技術教師ブログ
 わかると言えばわかるし、わからんと言えばわからん。私なんぞがどうこう言う領域ではないというのが気軽なので、ちょこっと。

 そう、こうして分析してみるともはや意識の高い人ではない。労働システムの老朽化に見捨てられた老若男女そのものだし、彼らに旧来の世界観の上に立った処方箋を渡そうとしても、どうしてもパイは限られているものばかりで、最終的には競争になってしまい、マッチョじゃなければ生きられない論か生まれない。

 ま、意識が高い系というのが、「労働システムの老朽化に見捨てられた老若男女そのもの」だというのはそうだろう。
 でもま、それも時代変遷というだけで、基本、いつだってそんなものだけどね。まあ、途上国が成長期にあるときは、比較的緩和されるというのはあるかな、若い労働力が求められるから、でも、中国の民工は悲惨でもあるが云々。
 で、「彼らに旧来の世界観の上に立った処方箋を渡そう」という思考の枠組みそれ自体も、意識が高い系バッシングと同じ体制にあるというか、そもそも、「労働システムの老朽化」が問題であるかような問題設定そのものが、旧態依然というか、この十年で廃村化した、はてな村と同型なんだよね。
 「労働システムの老朽化」をなんとかしよう、ニッポン! とか、やってられないし、これ、そもそも、普通の人にどうでもいい問題なんだよ。

そうした不安につけ込むビジネスも増えたし、政治による不安払拭型政策が新しい不安と長寿を作り出す、我々は自由の刑に処せられ、ゾンビのような状態で長生きを強要される。息苦しさから逃げ出すためには能力を上げるか鈍感になるかオタク文化を始めとした消費に走るしかないのである。ゾンビに安らぎと追悼を。アーメン。

 これもだからそういう、大義の文脈を前提にすると、陰惨な陰画しかできないし、それにちょっと色を付けるとこういう文脈ができるというので、これ、80年代のニューアカから延々とやってきたわけですよ、黒歴史な私なんかもな。
 じゃ、どうするのというのもその時代にあって、個人的に逃げろよということで、社会的な正義とかキラキラに魅了されちゃうのがそもそも罠なんだよ。
 で、これも、その「終わりなき日常を生きろ」というか、現在の強度がすべてじゃんなわけだけど、このご教祖さまも若い嫁貰って今は社会正義というかコミュミニティ正義を語るわけな。商売なんだよ。我々は消費者だし。
 だから、テキケトーに食っていればいいわけですよ、言説を。
 空しい。
 だったら、リア充になれよ。(真に受けないでね、チャオ)