188 : Lesson

The peace of God is shining in me now.

They heed your Father's Voice when you refuse to listen. And they urge you gently to accept His Word for what you are, instead of fantasies and shadows. They remind you that you are the co-creator of all things that live. For as the peace of God is shining in you, it must shine on them.
天の父の声を聞くをあなたが拒絶するとき、静けさのなかの思いがその声に引き戻します。その思いは、あるべきあたなのために天の国を優しく受け入れるように促します。それは幻想でも幻影でもありません。その思いが、あなたが共に命あるすべての創造者であることを喚起させます。神の平安があなたに輝くように、それは命あるすべてのものに輝くのです。

 文脈を補って、意訳。ただし、ACIMの生命は東洋的な意味での生命ではなく、人の魂といったようなものだろう。
 Acimはヘレンの意識のなかで告げられたもので、だから、近代的に考えるなら、ヘレンの無意識の産物なのだろうが、顧みて、ではヘレンの意識はというと、それもまた広義にヘレンの無意識の産物である。私たちの人格というのは、私たちの無意識の上に乗り出したある軸のようなものだが、それがある種の超越的な構成にとって従属的であありうることもあるかもしれない。つまり、Acimがヘレンの無意識なのではなく、ヘレンがイエスの意識の無意識のこの世の現れであるかもしれない。
 Acimの修辞はそれだけ見れば狂信的にも福音派的にも、またクリスチャンサイエンスの亜流のようにも見えるが、一貫してある種のグノーシスの論理を維持している。むしろ、その根幹の一貫性がヘレンの自我の一貫性より強固にヘレンの意識のリソースを従属化させている。人の意識のなかにそうしたある種奇妙な超越性というものはあるのだろう。
 私はどうか? ない。夢の混乱を見ても、そこにちっぽけな意識しかないことがわかる。そしてそれがある種の自我の抵抗の形態であることもわかる。とはいえ、さすがにへとへとになってLessonを追いつつ、奇妙な直観のようにAcimの真理性というのでもないし直接性というのでもないが、透明な意識のようなものを感じるようになった。
 先日、アービンジャーの二冊を英語で読み直して、self-deceptionということを思ったのだが、あの神学的な超越の構造の真偽への疑念をいろいろ考えて、その疑念が大きくなれば、それはそれで自分の思想という点からは棄却しようかと思ったが、沈思していくと、意外とそうでもない。神の啓示や預言というとまがまがしく思う人が多いが、現代人の理性によってそれはそう古代的にもまたヘレン的にも現れない。むしろ、預言というのはこういうものかという奇妙な感覚がある。
 モルモン教とはなんだろうかとネットのリソース辺りを巡って、どうやらこれはあの奇っ怪な経典ではなく、預言の一形式なのだろうと思うようになった。長老達がその預言の一形式を現代的に守っている限り、カルト的な構造でありながらもっとも現代的にもなりうる。ロムニー周りでひそかにモルモンへのバッシングあるが、それが共和党的なイメージで結びつけられているとき、ひそかにそのモルモン的な預言の良心はすり抜けていく。私はロムニーという人はわからないが、その現代的な預言のなかにたつとき、むしろオバマ的な合理性が奇妙に相対化されることを感じる。もっとも、こうしたことを言っても、日本では「宗教的」としか理解されないのだろうな。