50 : Lesson

I am sustained by the Love of God.
 
 意味はわかるが、"sustained"の語感がわからないのでとまどった。
 今年僕は55歳になる。17歳になった深夜0時のことをよく覚えている。これから子供ではすまされなくなるんだろうと思った。そして30歳になったとき、自分がそんな年になるのだとも思った。20歳越えて生きているような気がしなかった。それがさらに55歳である。率直にいって、緩慢なる絶望を過ごしていた。生きていても死んでいてもいいようなバランスを取っていたようにも思う。ボロボロになったなとも思う。そして、世界や過去の栄光をというものをその間に手にした人をうらやましくも思い、また、いや自分への神の恵みは過分なほどではないかとも思う。いずれにせよ、過去であり、世界の受容であり、そしてそれはともに無である。acimのイエスはそう教える。そしてそれは真理だと私は知る。
 世界(名声)を獲得することなく過去(名声)を獲得することなく、あるいはすれらすべてを捨てて、今生きているとすれば、なるほど"sustained by the Love of God"というほかはない。
 レッスン50まで到達した。率直なところこんなにしんどいワークだと思わなかったし、自分でもへとへとに辿ってきた。そして自分はなにを見出したか。平安はあったか。ある種引き返せない平安は見出したように思う。そして、生きること、生きて来たことの、あるとてつもない困難にも直視した。
 acimはこのレッスンを必須ですという。選択できるのは時だけですとも言う。そうなのだと思う。すべての人がいずれいつか、その道を辿る。私が先に歩んでいるわけでも、遅れているわけでもない。ただ、歩むだけなのだと思う。
 ただ、この先も進めるだろうか。Goodbyeというのは、God Byであり、Be God with youである。まあ、そこまで。