もうちょっと言うかな、大人毛ない話をさらに

 これもこの手の話をしていて思い出して、ああ、これもけっこう人生観を決めているなと思ったのは。
 これ⇒「 愛と憎しみ―その心理と病理 (1963年) (岩波新書): 宮城 音弥: 本」
 絶版だが古書は安価。ただし、古すぎて読むのをお勧めするわけではない。
 が、愛について、ローレンツではないけど、そうした生物学から心理学的な射程で宮城が定義したのは、今も自分の考えの基本になっている。
 それは、「愛というのは共生への意欲である」ということ。ちょっとオリジナルとは違うかもしれないけど。
 衝動とかではなく、種本能のプログラム性と持続性がこのなかに含まれている点が重要。
 「ああ、惚れかたら一晩やっちゃえ」というのは、愛ではないというか(もっともその進化論的な合理性はあるけど)。
 で、この愛というのは、ロマンチック・イデオロギーとか近代がどうたらではなく、宮城はもっとエソロジカルでサイコロジカルに見ている。まあ、逆にいうと、そんなもの「愛」と呼ばなくてええやろというのはあるだろうけど。
 宮城はあの時代でもあり、共生をリプロダクションの視点でなんとなく前提に捉えているが、実際のリプロダクションは個ではなく、群になるので、広義にメーティングの共生性だけが問われているのではないのだろうと、その後、自分でも考えた。
 ちょっと踏み出して言うと、むしろ、人間種の「愛」の特徴は、同性愛の共生性が共同生にもたらす幻想性の有利性なんだろうと思う。自由主義人間主義というものの価値性の、種のリプロダクションの本能プログラムの調停性として、同性愛の共生というのが必然的に人間種に出てきたのではないかと思う。
 で。
 「共生」のレンジというか、実際の個体には、すべての種でそうなんだけど、群意識があり、それがメーティングの意識と調和的な機能もあるはずなんで、予定調和的な全体最適解があるというのではないけど、人は時代的な制約や社会的な制約から賢く自分の愛(共生)を可能なかぎり選択できるだろうと思うのですよ。
 と書いてみて、このあたりの思考法、ほとんど通じないのではないかと思うので。
 ちょっと別の言い方をすると。
 ロマンチック・イデオロギー的な愛というのは、刷り込み的な部分があるなら、むしろ、それは必然的にずたぼろになって、むしろそこから、個体の個体性より、群の共生のリプロダクションに心理的な充足を得ることで、個体の存続を図ったほうがいい。つまり、そうしないと生きられないということ。
 もっとぶっちゃけていうと、愛に賭けてずたぼろって一度自分の個我の幻想をくだいて、そこから自分の置かれた共同生のなかで共生への意欲を再構築していくしか、人という種は生きられないようにできているんじゃないのか。
 APIさんの誤解にこだわるのは、APIさんが私に被せようとしている幻想と、私のこの思想ととても違うから例題になるかな、と。
 ああ、もっと具体的にいえば。
 たいていの場合は、個のリプロダクションだから、人は子のために生きることで、共生への意欲を再構築するわけだけど、そうできない、それどころか、人はどうも、同性愛の共生性的な倫理性が、そのまま共同生的な倫理性でもあるのだから、その倫理性(友愛)を生きるか、あるいは、群の愛情に生きるか(国家愛)になる。友愛・同性愛も国家愛も、両義的だし、具体的な種のリプロダクション幻想である家族愛みたいのと均衡にある。つまり、そこは、個々人が自己の愛情幻想と他者への寛容のバランスを取ることなんではないかな。