晴れ

 六月になった。Wiiの間の花が紫陽花になっていた。夢は覚えていない。また、アーレントのことだが、彼女にとって「宗教」というのは、公だったか私だったかとつらつら考えた。国家とは、つまり国家幻想とは宗教と言ってよく、しかもそれは国家の内部では公として現れるが、近代国家の建前としては私の問題でもある。アーレントの文脈なら私の問題ではあろうなと思う。ローマの共和制を想起すれば、そうだろう。この問題はライシテとの関わりもあり、しかもライシテの問題は英米法的なものではない。むしろアーレントが否定したフランス革命の継続的な命題に近い。ハイデガーは? 彼と限らずティリヒなどでも結果的にそうだし、カントなどもそうかもしれないが、個別宗教の拠り立つ普遍性が前提的に信じられるがゆえに、自然と善の問題として扱われているように思える。ブーバーにもそうした面がある。ならば、宗教という範疇をうまく不問にすればよいようだし、国家とはそうした幻想の共同体ではなく、市民契約としてのみでよさそうにも見える。だが、そうもいくまい。