ちょっと構造機能的に考えてみると

 以前にも書いたが、民族意識というのは、子孫のなかに自己の永世を見るという、いわば輪廻思想の変形みたいなものだが、それが民族として国家に集約されれば、永世を見たいと願う死者たちは民族の国に招魂されてしまうというのは、そう考えてみると、ごく普通の論理ではあるな(ちなみに私自身はこうした宗教観は持っていない、というか、一種のモデルとしてそう述べているだけ)。
 こうしてみると、マックス・ウェーバーが方法論的に宗教社会学において来世意識のモデルを置いたというのは、やはり賢いモデルの立て方というのはある。ただ、ウェーバーにとって民族というのはそれほど相対化されていなかったようには見えるが。
 このモデルと一神教については、ユダヤ教のようにもっと直接的に子孫の繁栄と約束された土地(国家)という幻想における、時間的な証人のような意味が強いのだろう。その意味で、日本の「万世一系」とやらの天皇もその点からは似たようなものだろう。し、そういうふうに機能してしまったのが戦中の宗教的な情熱でもあったのだろう。
 以上のモデルにあとはどう言霊信仰が嵌るかだが、機能的には天皇=無私の人=言霊、というふうにはなるか。これに対して、一神教においては、言葉=誰の言葉=その人の呪術的創造力、ということかな。
 ついでに。
 「科学」とやらも、実際には「誰の言葉」が科学者集団ということで、一神教的な呪術的な集団力の一種の亜種ではあるのだろうな。
 骨信仰みたいのは、どういうふうに嵌るか? そういえば、一神教でも儒教でも骨ではなく、死体が重要で、死者の永世は死体と結びついている。日本の場合、早々にというか古代から骨の信仰はあるようなので、死体は死後の幻想にそのままには結びつかない。その分、骨信仰というのは異界・来世においては身体を否定しているのだろう。日本人が意外とあっさり身体を否定して死んでしまう傾向があるのもそういうベースからかな。