もうちょっと

 加藤典洋の「敗戦後論」が、まあ、一見重要な提起に見えて、結果的にはあっさり失敗してしまったかもしれないのは、「自国の戦死者を先に追悼する」という「先」もだが、追悼するのなかに、微妙に招魂思想的なナショナリズムの緩和な維持装置になってしまう点ではないか。
 緩和というなら、靖国はダメだがフランス風の国家追悼(宗教的)施設ならよいとかもある。ただ、それで現実的な解答かとも思うが、根の問題は、いずれ解決はしないだろう。
 加藤が提出した問題で、加藤も意識していただろうが、「自国の戦死者」というとき、自国は加害者でありそれで殺された人はどうか、というのは出てくる。もちろん、加藤もそれを考え抜いて先の命題になっているのだが、このあたりも議論としては、循環するし、ちょっとメタ的に考えるなら、他国の被害者を追悼する=自国の加害意識を永遠に国家に結びつけて保持せよ、というのも、実際には、追悼と同じような宗教的な意味合いを介してナショナリズムの維持装置になってしまう。というか、これは実際には、米国と日本の関係においては加害と被害は綾を成す。
 ちょっと思考実験的な言い方をすれば、原爆で殺された人は加害者か被害者か。そのどちらでもありうるし、その追悼によってなにが維持されているのか。
 これはちょっと微妙な言い方だが、「英霊」は、日本加害の構図でいえば、間違った思想の自己責任で死んだか、騙されて死んだ被害者かということだが、その死自体には、意味はない。すべての死に意味がないというまで拡大せずに、戦争の加害の死には意味がないという立場はありうる。が、では被害だけが意味があるかというと、先の思考回路に陥る。
 この先が非常に難しいのだが、戦争の死とは加害であろうが被害であろうがその循環であろうが、死そのもの本質とは別に、やはり意味がないのだというとき、国家は死滅しているように感じられる。
 現実問題として、個々の私たちにおいては、国民として抽象化された部分については国家の問題へ集約されるため、個人の死にはやはり国家的な意味は受容できない。これは現実的な感性でもあり、よって、具体的な生活の場においては問題はないとも言える。
 まあ、その個人というもの抽象性(疎外性)には、理念的には国家の死滅が内包されていると見てよいのではないかなと思う。
 し、ようするに、同胞というか国家に所属する人を自己の永世の投影と見るのではなく、友愛の投影として見るということではあるのだろう。
 まあ、この問題がうまく解けるわけではないが。