言霊思想と招魂思想

 いや大したこと書く気はないしし大したこと書ける知識もないが。
 言霊思想というのは、日本の場合、古代からありそうだし、これはけっこうどこの国でも未開においてはありそうだ。
 モデルとしては、やはり憑依者が私心を失うことで言葉が真(リアル)になるというのがあるだろう。まあ、もっとエネルギーモデルみたいにして、魔法の言葉が現実にというのがあるけど、その大魔術師はというと、知識と血統とそして私心を失う憑依の能力ではないかな。ハリポタなんかも考えてみると血統だな。
 西欧においても言霊思想というのはあるのだろうと思うが、つらつらとギリシア古典とか聖書とか思い出しても、ああ、あれかなというのはあまり思い浮かばない。ヘブライキリスト教的な世界では言葉というのは、まさにそれによって神が創造する、つまり、光あれと言ったという言葉、つまり、神の言葉に創造のすべてがかかっているから、言葉は神であり、最初に言葉ありきであり、だから言葉こそはキリストであるという思想が出てくる。
 新約などでは、誰の言葉か、が問題でもあるから、西欧においては、誰の言葉かということで、言葉に誰がパッケージ化した形で外化されるものかもしれない(なんとかの名においてなんたらとか)。中国とかだとそれが秘伝とかなるのだろうか。日本だと、さて、そういうのはあるかな。
 招魂思想だが、これは、古代にはないっぽい。ヤマトタケルとか白鳥伝説にないこともないかとは思うが、中世にはなさそう。逆に中国の場合はある、というか、これは儒教、つまり道教思想の一種なのだろう。宋学あたりを元に、明の亡命者が日本に撒いた思想なんだろうとは思うが、それなりに日本でも受容の素地はあったのだろう。
 靖国神社などは、まあ、厳密にはあれは位牌じゃないとか言う人もいるが、ぶっちゃけ位牌なわけだが、それでもさすがに骨を祭っているわけではない。最近ではさすがに戦地や沖縄の遺骨収集が衰退しているが、日本近代においては招魂思想は骨信仰に結びついている。仏教の舎利の思想も影響しているかもしれないが、実際に私も父親を焼いてみた感じでは、ああ、骨がその人だという情感のようなものあった。
 日本人でも死ねばゴミになると豪語する人もいるし、親鸞なども死んだら鴨川に投げて魚を餌とせよとしているが、どうも骨への情感のようなものはあり、それは私にもあるな。というか、人は死んだら骨になるというのは、微妙に唯物論的な心情でもなく、無神論とも言い難い。
 言霊思想や招魂思想というのは、基本的には未開の宗教心理ともいえるが、まあそうとも言い切れないし、どうやらこれらは、一神教思想とは相容れないものはありそうだ。まったくのアマルガムができないわけでもないだろうが。
 似たような奇っ怪なものは、あとは輪廻思想くらいなものか。これはどうも人間の基本的な生命観や自我意識に根ざしているようで、これもやっかいな問題だ。と、同時マックス・ウェーバーが方法論的に使った来世思想もあるだろう。
 このあたりの宗教的な心情の構造機能論みたいなものはありそうだし、誰かやっているのかもしれないが、どうなんだろうか。