リアリティとか、その2

 そういえば先日米国某大手企業のCEOの講演会なんぞを聞に行ったのだけど、話のなかで、よく、in realityというフレーズが出てきた。
 我々はこのように考えがちだが、しかし、in reality……現実はそうではない、という文脈だった。
 ちょっとCobuildをひいてみると、

The reality of a situation is the truth about it, especially when it is unpleasant or difficult to deal with.

 が出てくるあたりさすがだと思うけど、unpleasant or difficult to deal with というのが、realityではあるわけだ。
 そして、CEOが言うように、それは予想しづらいし、現状では見えづらいという含みがあり、ここでも、似ている。
 (なのでたぶん、この向き合うrealityはマルクス的な意味での「自然」も隣接していると思うが。)
 しいていうと日本語だと「現実」というと、「理想」との対比のようだけど、英語のin realityは、やはりphenomenaに隠されているという含みはありそうだ。
 と、いうところでふと気がついたが。
 in reality and in name、というフレーズがある。「名実ともに」ということだが。ただ、in nameというだけは使わないように思う。
 これは、nominalで使う。nominal rate of interestとか。ここでは「名目」と訳すが、工学などでは「公称」。
 「名前では」こうだが、「リアリティでは」こうだ、みたいな発想が欧米にはある。
 なので、欧米の思想には、名前を正しくせい、というのが執拗にある。リアリティから乖離させるなというオブセッションかもしれない。ただ反面で、修辞がある。昨今の例では、れいのlegacyとか。
 日本の場合、名前というのは、もちろん、修辞でもあるのだけど、どうもリアリティの重石のようなものはなくて、それぞれがTPO的に適切な現れを指しているように思える。あれだ、言いたいことはわかるが、その言い方はねーだろ、的世界。
 西欧の場合、名前による言明が、その本人の名という署名によってリアリティの重石になる、つまり証言ということだけど、日本の場合は、名前による言明は、その場の空気にどんだけ合致しているかということで、署名というのは空気への従属なんだろう、しいて言えばだけど。
 (なので西欧の場合、署名は実際にはその身体を指し、偽証にその身体を質に取るようなところがある。)
 なので、日本とかだと「証言」を支えるリアリティというのはなくなってしまう。(偽証ではなく、あのときはああ言うしかなかった、すまん、みたいな。)
 というか、日本語論にしてはいけないのだけど、誰に向かって言ってんだおらおらぁみたいのから自由にリアリティの重石だけで言明するということがしづらいのだろう。
 まあ、言語か文化とかいうものがそう支配的というわけではないが、このあたり、とても簡単だがどうにも西欧と日本で、彼我の差とは言い難い深淵のようなものがあるなと思う。
 もうちょっと言うと。
 西欧の場合、リアリティはぶっちゃけ神に関係しているけど、日本の場合、それは言明との関係性だから、如何に自身が純真であり正義であるかというという自己無化的な私心無きことに結びついているのではないかな。つうか、「私心」という言葉もすごいものがあるが。