ああ、そこが微妙なところです

 わかるとも言えるし、異論とかめんどくさいことではないんですが。
 ⇒reply to id:finalvent(ポスト・リアリティの喪失) 2009-04-01 - 日記&ノート(転叫院)

という話がまさしく、シカゴでの宮台さんパートの主旨で、1976年・77年あたりにまず断層があって、それを宮台さんは見田宗介の議論を下敷きにしつつ(この整理の仕方は大澤真幸の『虚構の時代の果て』とも共通ですね)「未来の時代」と「自己の時代」の断層として語る。

 問題の感触としてはそうなんだろうと思うのです。そして、その感触の部分がうまく言葉になってこないところです。「微妙」と逃げてはいけないのだろうけど。
 前回の私の話は、その「自己」というのを、性の生物性みたいなところの挫折をどう引き受けるかというふうに考えてみたかったのですよ。ただ、自分なりにうまくまとまっているわけではないのだけど。
 あまり比喩的な言辞にすると誤解が広がるばかりだけど、「あれ鏡のなかにいるこの婆さんは私なの?」「この禿オヤジってオレ?」「リアルにチンコ立たないよ、記号がほしい」みたいな、乖離感が、現在世界では、うまく回避できてしまうか、あるいは、ナンセンスな優位からの罵倒(憎悪としての他者への依存)になってしまうか。
 別の言い方をすると、老化する自然性をどこまでも幻想で拒否できるようになってしまったし、社会がそれを消費の延長として実現してしまった。これも比喩でいうと、「「おひとりさまの老後」上野千鶴子と、「吉本隆明の声と言葉」の老醜の吉本によりそう吉本和子の差というか。ばなな(彼女は意味的にはオウムの一つの変形でしょう)の子どもを抱きしめる和子さんの姿をばなばがなにかで描いていたけど、「おばあちゃんが守ってあげるから」と圧倒的に孫を抱きしめてしまう。それらは、戦後史というもの思想の最後の形なのだろうと思うのですよ。
 もうちょっと踏み出していうなら、上野千鶴子のおひとりさまは、マドンナのようであるべきなんだろうと思います。それができないところに、ヒトの類としての思想の崩壊の絵があるように思える。