天気図を見るだけで鬱になりそうな気圧配置。でも、気分のほうは実際にはそうでもないのかもしれない。散漫な関心と自分としては細切れな時間をつなぎながら、けっこう自分というものを忘れている日々だが、昨晩は遅くばたばたとブログを書いたあとぼんやりと自分のことを考えた。
 まあ、率直にいって、このところの私の意見について、批判を多くみかける。罵倒も急に増えたように感じられる。ただ、以前のような組織的な攻撃はなく、それなりにネットの層が厚くなったことや、私をアルファブロガーだと思ってゆえの短絡的な攻撃というのもあるのだろう。自分が若いころを思えば誰かにあたりたくなるのはしかたがないことだ。が、おそらく誰かにあたるより自分が他者からあてられるようにあるほうがよいのだろう。
 ああ、自分というのは理解されていないなとも苦笑して思うが、昨晩沈黙を見つめながら、私はこういう人だったじゃないか、誰かに理解してもらえることを願いつつも、自分は自分でいるしかないと、だからブログなんか書くのじゃないか、と。
 その自分が自分からはもう見えなくなるならそれは自分にはしかたがないか、自分への友情を得ることがなければ、それもまた自業自得かと思う。私は卑劣な人間だろうか。私は自分で正しい人だとは思わない。凡人だし、それゆえに目立った不正もしないしできない。それに甘えていただろうか。自分が正義だと確信することでもそれをもって社会を荒立てそうだったり、別の市民活動のじゃまになるようなことであれば、さっさとすっこむ。彼らには彼らが負った悲劇というものがあるのだろうと思う。
 このところの自分に向けられる非難は、まあ、だいぶ誤解されているなとは思うし、それはそれでしかたないとも思う。私はイデオロギーには心底関心がないので、そのあたりからの勘違いの弾は、ああ、それは幻影に過ぎませんよと思う。私は基本的に民主党を支持してきたが、民主党の支持者ではなく、小沢の支持者というか、心情的な支援者だった。そのことでいろいろ学んだ。今の小沢を支持しているかといえば、すでに書いたが国民新党社民党まで丸めての政権には意味を感じない。自由党を立てたころの小沢は少数でも政策政党であればよいのだといった。私はその小沢をよいなと思った。が彼は、不思議とまた政治権力の中央に戻り、また政治屋に戻ってしまった。いや不思議とではない、カネがそうさせたのだろう。それこそが彼の願いでもあり、死に所というものだろうし、私もその死を見届けてみたい。
 長島昭久衆院議員は「これからどう検察側がやってくるか分からない。身に覚えがないということ(説明)がひっくり返るような事実があれば、別の判断にならざるを得ない」と言ったという。まあ、それもまた政治というものだし、政治への意志があることなので、悪いとも思わない。が、私はそういう政治こそ心情的に嫌悪する。小沢が倒れちゃうならその小沢と一緒に倒れて政治なんてものを終わりにする政治家のほうが好きだ。義とかそういうことじゃなくて、人は敗北するものだし、それにつられて敗北しちゃってもいいんじゃないか。