年始に読んでいた本
安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書): 山岸 俊男 |
つうか、非常に面白かった。勧められて購入したときにざっと速読していたのだけど、結論より、その方法論が面白い本ではあった。もちろん、出てくる常識をやぶる結論も面白い。
最終章に書いてあるけど、こういうと語弊があるがいわゆる三流大学と一流大学の学生の差異が、入学後に社会システムを想定されて出てくるというあたりは、驚いた。私は、大学間の差異は、個人の知的努力でなんとかなるでしょ、というか、日本の大学ってわからんなとか、あまり関心を持っていなかったのだが。そして、本書でいうヘッドライト型知性をどのように、大学生時代に補うか、というか、その後に補うかという点で、ある種の教育的な仕組みが必要だというあたりで、以前にちょっと書いた、はてなの教育NPO的な部分の意味を連想した。現状では、率直にいって、Webアプリの技術者くらいにしか開かれていないけど、はてなみたいな集団がこうした知を補う機能がもてるとよいのではないかとは思った、が。
が、というのはすでにその期待の臨界は越えているし、ネットの知性は、率直に言って、社会的な機能としては崩壊しているのではないかなと思う。衆愚というより、各人が参加することで、参加した「心」の心因的な様相が、匿名的な不信感とSNS的な馴れ合いとともに、カルト的な小集団間とその軋轢の妙味を生んでしまている。できるかぎり知的なイスタブリッシュメントを引き下ろすか(アルファブロガー笑)、その崇拝(なんとか先生に従うキモイ集団)という光景に収斂していきそうなのは、前提としての社会的な孤立というか、これもやや言い過ぎな比喩だけど、ネットの空間が三流大学化していることだろうし、そのことが、知のイスタブリッシュメント側に利益がある均衡ができてしまいそうだ(ネットで情報を集めるのはバカだよ的な)。
別の言い方をすると、知的な対立が信条的なもの、あるいは心因的なものに還元される議論の対立、しかもそこでの「真理」とは解答集みたいに書かれてフィックスしたもの(ググレカス的な)、という枠組みの対立は、まったく不毛でしかないというか、もともと議論というより、集団の閉塞的な共感を原因としているのだろうと思う。むなしい。
余談が多くなったが、この本はとても面白かった。
書かれていた時代が小泉バッシング以前なので、今の文脈から切り離されているのも距離感としてよいと思う。
展望としては、山岸俊男の望むような信頼社会は形成されないのではないかと思う。というか、信頼が形成される地域のシステムが重要なのだろうが、そこは当然ながらある階層的な閉鎖感が伴うだろう。ちょっと飛躍するが、偽善の善意の空間と、救いようのない空間と分離してしまうのではないか。まあ、結論を急ぐより、本書のこの手の思考方法に慣れたほうがよさそうだ。つまり、局所的にも合理的な政策の可能性として。(ただ、たぶん、マクロ経済学の知見のように無視されるのだろうなとは思うが)。