晴れ

 8日かと思う。特にしかし書くこともないか。富士山は少し霞む。朝食でクリスマス用のカタログを捲るが特に欲しいものもない。これはうまそうだなと思うものもない。うまい煮魚でも食いたいなくらい。
 夢は。あらかた忘れたが、たばこのPeaceのフィルター付きのすって、このタバコはうまいなとか思っている。以前はフィルターなしがよいと思ったがと。他、いろいろごちゃごちゃした話があったが忘れた。起きてしばらくタバコでも吸うかと思ったが、紙巻きがうまいわけもない。パイプはめんどくさい。葉巻はガラでもない。
 そういえば、昨晩時間をかけて須賀敦子の「ヴェネツィアの宿」(参照)を読了。魂が震えるような書籍だった。恐ろしいというと違うのだが、魂に恐ろしさを感じるなにかがある。一読場違いに見える「白い方丈」のエピソードが奇妙な陰影を投げかけるというか、存在と幻影を仕立てる。「カティアが歩いた道」はある意味で一つの到達であり、彼女のキリスト教への問いの一つの暗示だが、おそらく、神髄は「大聖堂まで」にある。この思い出はいくらでも美化できる。森有正のいくつかの美文の嘘くささのように、感動にまとめることもできる。しかし、須賀はそうしない。幻影と幻滅と死にただ向き合っていく。たぶん、その行き先にあったものはペッピーノなのだろうし、またそういう物語として人生を語ることもできるだろう。ペッピーノはどこかしらキリストの公生涯的な雰囲気がないわけではない。しかし、それらもまた須賀のなかで静かに棄却される。話は、父の死に収斂していくかに見えるし、それは父に借りた夢に収斂していくかにも見える。ただ、そこもそう簡単な話ではない。「寄宿学校」のなかで彼女たちが歌うアヴェ・ヴェルム・コルプスを修道女が聞き入るシーンで、私は不意に泣けた。感動に誘導されたわけではない、人生そのものが超越に出会う、確かな場というものがまるで、悪魔の誘惑の時のようにぱっくりと開く。
 神谷美恵子は皇后に素直に語った。素直というより、友情を示した。友情、友愛というものが、表層的な信仰より深く人の人生に沈む。皇后は今上に友愛をもっているし、今上もまたそうだ。それは昭和を三十年以上も生きてきた人間には自明であるが、それが東宮にどう伝わっているかは、多少のもどかしさはある。そして、いわゆる皇家への敬愛を「語る」人たちその感性があまりみられない。
 キバのなかでタイガはドジっ娘クイーンを抱きしめながら、孤独を語った。ああいう漫画じみた番組を比喩にするのは不敬な感じがしないでもないが、今上の孤独はああいうものだった。昭和帝には苦悩はあったが、帝としての勤めにブレはなかった。「わたくし」をもたない王というものをなぜこの現代のなかに実現したのか、その個人的な資質にもよるのかもしれない。今上はそこは知的に受け止め、悲劇を静かに受け止めた。東宮もまた悲劇を生きる決意をした。私は、こんな悲劇をこのファミリーに負わせる必要などないと思うが、そこはなかなか言葉では通じない世の中になった。というか、私は、平成が何年であるかも失念して生きている。