晴れ

 富士山が美しい。昨晩は早めに引きあげ、須賀敦子の本を読む。なかなか読み進められない。読めないわけではないが、なんども読み返す。文体と思いのなかに深く沈むものがある。ああ、これが存在というものだと思う。森有正が経験と読んだものは、存在ではないかとしばし思う。存在は私とは分離できない、と言ってよいのかわからない。が、まず私というものがあり私は経験によって存在する。記憶ではない。そこが森の苦慮したところだというのがよくわかる。森はそこから名辞を語る。経験が名辞により、人の経験となる。イエスがいなければ愛の意味がないように、そこに人の経験がある、と。森はここで普遍にまた向き合う。そうしていながら、森は、こうした存在に向き合う自身が西欧の経験なくしてありえないことを知っている。須賀はそのようには語らない。だが、ほぼ同じ存在に向き合っている。これはいったいなんなのだろうと思う。二人ともそうした存在が普遍に出会うときに、音楽に出会う。むずかしい問題だな。
 寝付かれず、夢も覚えていない。
 キバを見る。そういう展開かと驚く。脚本がすでに破綻しているという声もあるようだが、お子様向けな展開は別とすればテーマはまだぶれていないどころか、どうもぶれそうにはない。古典劇と言ってもいいだろう。女というものはああいうものだという、中年男の不思議な思いが深く沈んでいる。女は救いであり裏切りであり、そして救いだ。そしてそれは本質を突き詰めてしまえば悲劇にしかならない。およそ生きるということは悲劇にしかならない、というか、生きる本質が悲劇であるというのは不思議なことだ。小林秀雄はなんども語り、そして語ることをやめた。たぶん、ベルクソンに失敗してからだろう。あのころ、こっそり小林は草柳大蔵に歴史がすべて終わる時のことを語っていた。そして小林の頭にはずっとイエスがあった。50代を超えて、そしてもう信仰というものでもなく、そして誰に語るのでもないなら、普遍に語るのかというところで、彼は日本を語りだしてしまった。そうせざるを得ないところになにかしら女というものの体の臭いのようなものがある。
 須賀の思いのなかには、須賀自身を娘としてしながら、女の体の臭いをかぎ分けていくある驚きのような感性がある。そしてそれを娘として分離しなければ書けない、存在できない、しかし、存在するこは矛盾だという、奇妙な思いがあり、それは同じ地平でやはり日本が問われる。
 アリストテレスは悲劇によるカタルシスを語った。つまりアリストテレスはバカだということだ、と言ってみたい気がする。もちろん、そうではない。アウグスチヌスもそうではない。アクィナスもそうではない。デカルトも、ハイデガーも。