増田の意見
⇒日本っていうコミュニティも放っといたらこういう死に方をするんじゃないかな、とか。
その疲弊の中で、ゲームのプレイの質も低下してくる。活気がなくなることはもちろん、人の少なさは個人のミスを拡大して見せてしまう。また、それまで積み重ねられ継承されてきた情報が受け取る人間のいないまま消える。常連たちはコミュニティの存続するかどうかって問題に対する危機感と苛立ちを作り出し、伝染させる。
ブログもそうだと思うな。
「ブログを語るブログ」や「アルファブロガー(笑)」を必要とするブログというのは、「ブログは終わった」ではなく、なにか異質なものが始まったように思える。というか、すでに終わった地平の向こうの世界であって、書き手の側のブログの意味自体は変わらないし、「アルファブロガー」は単に一部の人がそう呼称するというだけで、実際の書き手の問題ではない。「ブログを語るブログ」は無だし、「アルファブロガー(笑)」は最初から幻影でしかない。
では、ブログとブロガーはどうあるか、あるべきか、と言えば、これがまた単純に変わらない。ただ、ブログでありつづけブロガーで有り続けるしかない。
ただ、環境は変わる。そして環境、フレームワークが変わればメッセージが変わる。
現下の表層に浮かぶブログは「ブログを語るブログ」のための話題だし(はてぶがその最先端かな)、「アルファブロガー(笑)」は「(笑)」のために読まれる。端的にいえばゴシップ雑誌のようなものだが、商用的な裏(実際には著名人の広告)という「アルファブロガー(笑)」を除けば、「アルファブロガー」がいるわけではない。ブロガーはそうした呼称とは関係なくただ、ブロガーであるかどうかだけが問われている。
でも、だからこそ、なぜそのブロガーはメッセージを発するのかという部分が、どう受容されるかには、いまだ意味へのチャレンジがある。その危機は、聞きたい人は聞きなさい、聞かなくてもいい人はどうでもいいよ的なSNSではないという点にある。
信条やイデオロギーといった共感ではなく、その一人の人の思いに出会う細い連携の可能性みたいなものが、どのように可能かということは依然問われるし、たぶん、それが問いうる地平はまだ崩壊していない、と思う。
ちょっと大がかりにいえば、一人の人間がいかなるイデオロギーに屈せずとも、また、自然的な傾向としての親近感(同情・共感)がなくとも、そのメッセージゆえに友情が可能であるという可能性への希望だと思う。
私はいる、なぜなら、私は友であることを呼びかけるからだ。