そういえばついでに大内氏

 ちょっと連想でメモと。
 ⇒大内氏 - Wikipedia

出自
百済聖明王の第3皇子である琳聖太子の後裔と称する。琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとする。しかし琳聖太子の記録は古代には無く、大内氏琳聖太子後裔を名乗るのは14世紀以降とされるため、この伝説は信憑性に乏しい。代々周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外は不明である。

 史実はよくわからないのだけど、「大内氏琳聖太子後裔を名乗るのは14世紀以降」というのはガチ、としてよさそう。というその時代に、「琳聖太子後裔を名乗る」という日本ってどういう日本だったのか、イメージが湧きづらい。
 ネタでよく取り上げられる⇒高野新笠 - Wikipedia

新笠の出自
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父の和乙継は百済系渡来人の子孫で、姓(かばね)は和史(やまとのふびと)と推定されているが明らかではない。

また、淳陀太子の没年と高野新笠の推定生年(710年 - 720年)には200年以上の開きがあり、和氏が百済系渡来人といっても百済王氏のような今来(いまき)の帰化人ではなく、相当な古来である。和乙継の名前をみても相当日本化した帰化氏族だといえる。

 たしか、この点については、今上がけっこう明言されたことがあったかと思う。
 いずれにせよ、百済系の帰化氏族が天皇家と関わってるし、桓武帝に大きく関わっているのは、ガチ、としてよさそう。
 こうした、なんというのか、明治時代以降の天皇家伝説と違う、半島出自の伝説が、中世においてどういうふうに理解されていたのか、現代からは見えづらい。