晴れ

 すっかり冬の日だ。富士山が今日もきれいだ。
 昨晩はくったり疲れた。体をぬくめつつ、グリューワインをちびちびと飲み、本を読み、眠くなってしばらくして寝た。なんか老人になったような感じがするな。
 夢は覚えていない。どんぱちと派手な夢だったような感じがするが。
 ネットを見ていてなんとなく思うのだが、今北産業ふうな解答を鵜呑みにしてその知識の有無で他者をバッシングするような傾向があるように思う。自分もそれから免れていないのかもしれないとも思うが、世界の事象というのは、歴史でも科学でもそう簡単に解答がでないものがある。ではどうあるべきかというと、わからない、という言うことだし、それに適切に対応できる方法論的な確認に留めるべきだと思う。特に、科学というものは、未知について謙虚な一つのありかただと思うが、どこかで科学=真理になり、そしてそれを個対個的な関係の言説に権力の構図として持ち出されるようになった。エンゲリスム的なものかもしれない。しかし、社会にあっては科学的真理とはその方法論的な姿勢に対する委託でしかない。その意味で、科学とは科学教であるという揶揄は揶揄としては本当は成立しない。
 私は科学少年だった。身近の不思議な現象にどう科学が説明するのかに関心をもった。あのころの科学爺たちは、科学とは不思議だということをよく知っていた。その不思議に魅力があるのだということも伝えた。
 先日NHKの番組でトビウオを見た。トビウオがなぜ飛ぶのか。私は水中での加速で空中にロケットのように飛び出し、そして翼のように羽根を広げるのだと思っていた。まったく間違っていた。私が「トビウオは水中での加速で空中にロケットのように飛び出した」と説明すれば偽科学だ。しかし、その偽科学をきちんと修正することには科学の営みというものが必要になる。そしてそれは難しい。難しいという方法論的な本質に、実は、科学と社会の関係における真理の意味合いがある。重要なことは、偽科学を断じることではない。推論に危うい部分があるときは、可能な科学的方法論の限界のなかで謙虚に留まることだ。それが社会と科学との対応なのだということは、社会の側から、科学よりより確実な原理としてきちんと打ち立ておくべき……なのだろう。