ある種の、たとえば恋愛関係の質みたいなものが

 日本語や、近代という背景に結びついているのかどうかは、わかりそうでわかりづらい問題で、いや、よくわからない。
 漱石のこころや明暗など、百年以上も経つのに、かなりの日本人の人生の経験の質に呼応してくる。
 たぶん、あの小説を、かなり上手に翻訳しても、欧米人には理解不能なのではないか。
 あるいは、現代日本の萌え文化みたいのを経由すると可能なのか。とか思うのは、めぞん一刻の情感とはが現代の欧米人でもわかる人にはわかるだろうし、あそこから漱石の情感に繋がるのはもう一歩のようにも思う。
 私は小林秀雄が好きでよく読んだが、彼は彼で女とか友情とか家とかいろいろ悪戦苦闘はしたが、漱石文学の質感とはうまくあっていないように思えた。小林という人は漱石がなぜこんな小説を書いたのかまるで理解できてなかったのではないか。
 それはそれとして。
 村上春樹やよしものばななの文学は、そのまま欧米にも通じている。よい翻訳者を得たというより、その心性がそのままグローバルななにかに通じているのだろう。もっとも、それはそうでありながら、アジアではまた別の通じ方があるだろうし、そのスペクトラムの端に、日本の、内向的な日本性とそのままのグローバル性があるだろう。
 最近ではあまり言われなくなったが、谷崎とか川端もグローバルに読まれていた。あの心性というのは意外に欧米的なものがある。
 三島はそのあたりのグローバルさみたいものをスキーマティックにかつ技巧的にエキゾチシズムを混ぜてプレゼンしましたみたいな文学を書いたが、谷崎や川端みたいな筋金入りではなかった。
 日本文学が、というような、主語、主題的な問い掛けには、どうも奇っ怪なものがある。
 それらは日本語なり、日本文化というものだけには還元しがたいというか、なによりそれを今なお成立させてしまう日本人の生活感覚の質感というものが、なにがどうなっているのかわかりづらい。
 ちょっと危うい言い方をすれば、日本人男女が、欧米とはまったく異なるセクシーさを持っているということだ。ある種の欧米人はそのセクシーさを発見するし、中国人もこっそりそうしている。欧米や中華圏とは異なる、奇妙なセクシーさという<存在>がなぜ存在するのか。
 危うい言い方だが、日本女性や日本男性は特殊なセクシーさを持っていて、それがその言語と文学に不思議な関係を持っている。もうちょっと言えば、日本人の意識や言語には人が人であることをどろどろと奪い去っていくようなエロス性を持っているのだろう、ちょうどこれのテーマの鏡像のように。

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白い人 黄色い人 (講談社文芸文庫): 遠藤 周作