まあ、なんというか

 ⇒404 Blog Not Found:言葉は何を乗せているのか
 弾さんらしいというべきか、まためちゃくちゃなことを書いているなぁとも思うが、批判ではないよ。まして、被害妄想にもほどがある、ほどでもないつもりなんだけど。
 ま、ちょっとだけ。

この「国」が「日本語」に対して来た非道は、本書にも詳しく書かれている。この国において、日本語を虐げて来たのは他ならぬ国家であり、その走狗たる役人であり、その役人たちに一目おかれていた文学者たちであった。彼らが日本語につけてきた傷は未だ痛々しく、いまこうして我々が使っている日本語に残っている。中途半端で意味不明な漢字簡素化に新仮名づかい....私が今使っている日本語も、「傷ついた日本語」である。なぜなら私は「傷つく前」の日本語を何とか読めても、書くほどの教養がないからだ。私の名前が「彈」ではなく「弾」なのも、実はその余波である。

 これはそうではないんですよ。
 で、コメント欄に。

「彈」も「弾」も、明治国家や文学者が登場する以前から共に使われてきました。そして両者は区別されず、字体としては同一です。
http://www.joao-roiz.jp/HNG/search/word=%25E5%25BC%25BE

 まあ、それもそうなんだけど。
 このあたりの機微と歴史の感覚は、もう滅んでしまった日本語の部分なんだろうと思う。
 まあ、このあたりにも書いてあるには書いてあるんだけど。

cover
漢字と日本人 (文春新書): 高島 俊男
 細かいこというといろいろ問題のある本なんだけど、まあ、高校生になったら読んでおくといいと思う。
 もひとつコメント欄に。

漱石も「こころ」や猫みたいなものを読んで評価しないで、
草枕とか行人とか読んでみたらいいと思いますよ。

 まあ、それもそうかなとは思うけど。
 もとの弾さんのエントリに戻って。

正直、彼女が愛してやまない漱石は、私は好んで読んだためしがない。同書を通じて「ああ、こういう読み方もあるのか」と感心はしたが、だからといって漱石を「読まなきゃ」という義務感は感じても「もっと読みたい」という欲求は全くおきなかった。鴎外に至っては、いくらいい文章を書いたところでその罪の大きさを拭えるものではないとすら感じている。

 これだが。
 別に読めとは思わないのですよ、私は。漱石や鴎外を読まないのは、無教養だなとも。その意味で、「義務感」なんかなくてもいい(ところで鴎外の罪って何? 女?)。
 で、と。
 漱石を読むというのは、漱石を読まないと整理されないような人生経験というものがあるわけなんですよ。で、そういう人生経験というか、人間が生きる理不尽さというものの経験の質感というか。まあ、「読まないと」というのもちょっと違って、そうした人生のもつ奇妙な味わいというか質感のなかで、ああ、漱石先生は面白い、というふうにその面白さが見えてくるものなんですよ。
 明暗の主人公の一人ともいえるお延という女性のもつ、ある圧倒的なリアリティというのは、青年期に女というものに、ある程度とことん付き合った男の心の経験の質のなかで産まれる。ああ、女とはこういう生き物で、こういうふうに考え、こんな行動をとるものなのかという、ある腹のくくり方みたいなもの、そしてそうした女というものの質感に、清子というもう一人の女への思い、幻想みたいなものがある。現代のはてな語でいえば、清子二次元、お延三次元だろうか、まあ、冗談はさておき、そうした女というものに付き合い、それでいてそうした男の生き様の屈曲した部分の質感のなかで、それがまったく物語的な主人公たりえないこと、つまり、由雄がしだいに、お延や清子によって、男というもののある、客体的な質感への変貌のようなものを遂げていく。
 そういう経験というか、まあ、そういう経験の質感みたいなものがなければ漱石なんて面白くもなんともないし、およそ知的とか教養とか、そういうものはどうでもいいことなんですよ。
 人生というのは生きてみるんだから味わい尽くせとも思わないが、味わうべき運命というものはあり、文学とはそのgood companyでもあるというか、物語と文学の微妙な違いのようなものがある。
 まあ、人によって、だから、どうでもいいことなんだけど。
 そして漱石が日本の文化の中に生きるというこは、日本語がということではなく、近代日本人の人生の経験の質感に依存しているのですよ。そしてその心映えのようなものがなくなれば、それはそれで漱石は消えていくし、それはそれでそういうもの。
 

追記
 ⇒はてなブックマーク - まあ、なんというか - finalventの日記

2008年11月13日 ajtptwtptja 同じことは源氏物語の「をかし」「あはれ」でも言えるし、ライトノベルの「萌え」でもいえる感じでしょうか?

 そう。

2008年11月13日 mojaru 名文, 文学 【漱石が日本の文化の中に生きるというこは、日本語がということではなく、近代日本人の人生の経験の質感に依存】「私」の有りようが変化すれば読まれる文学もまた変わる、と。いや、文学はもっと時代的なものかな?

 そう。文学というのは基本的には時代的というか、ある時代が作り出す人間のタイプをえぐり出す。ただ、それが数百年と続くなら文明の問題かもしれない。皮肉な意味ではなく、弾さんとかは新しい日本人かも。

2008年11月13日 mmsuzuki 毎度毎度のエクスキュース「批判ではないよ」を言われた当人及び他の読者はどう思うのか気になる

 気にしないよ。批判ではないよと言っておくだけで避けられる誤読があればコストパフォーマンスがいいし。

2008年11月12日 toronei blog, hatena 絶対にこの書きだしとタイトルはワザとだ「ヤホーで調べまして」とか「なんでだろう」みたいなもんだ、凄い。

 それほど意図してない。

2008年11月12日 mahal blog 136件。→google:site:d.hatena.ne.jp "まあ、なんというか" finalvent

 将来google検索にさらに元エントリの一括削除機能があるとよいよね。