ついでに

 私なんか、他人は私をわかってはいないな、という以前に、関心すらもっていないな、私は本質的にこの世界・世間の傍観者だなと、とは思っている。なんつうか、なんかの間違いで存在してしまったような。
 それはそれとして。
 自分に疑念を持たない一群の人がいる。罵倒とかする人とか、自分が頭がいいと思っている人とかもそうかな。こういう人たちも、自身を人がわかってないな、バカばかりだなと思っているのだろうけど。
 そのあたりの人に出会うと、ネットでもそうかな、私は引くなあ。
 よくわからないのだけど、そのあたりの人が私に絡んでくるとさらに、困惑する。それって原理的に無理でしょ。ようするにあなたらは私の思念などゴミというか無価値だと思っているのでしょ。(でもだったら私をほっといてねというか。)
 で。
 矛盾しているのは、私はそうはいっても、どこか私を無視しないでメッセージを微妙に出しているのだろうなというのと。
 それと。
 こっそりいうと、私はけっこうな人が、気が狂っているんじゃないかなとなんとなく思っている。ここは誤解されるけど、私は自分が正常だとはまるで思っていない。脳が壊れているんじゃないかと常に疑念を持っている。
 でも、どこかしら、おかしいな、世界や世人の多くはキチガイだなとも推論している。
 このあたりはある種のメタなフレームのトラップかもしれない。たとえば、私が自分を正常だと思えたら世間も正常に思えるというか。
 ただ、自分に疑念を持たない一群の人って、自身の狂気性には無自覚な感じはする。
 というあたりで、そういう正気へのフィードバックを内的にもたない人は、ちょっと避けたい。
 補足すると、自分に疑念をもっていてもフィードバックの先が内的な感覚ではなくて、外的な知性とか知になる人(なんとかの本や研究書で明らかみたいな)は、やはり狂人の類ではないかという感じがする。
 私は世界と世間の知識のある種の公準はそれはそれとしてそのまま鵜呑みにしておけばいいと思うし、常識とか知識なんてそんなものだし、それはそれ自体がルールだ。
 でも、内的な感覚、違和感という部分のフィードバック性のなかで、私というほのかな感覚は生きているし、その内的な感覚の照射性がない人は、実は、意識としては存在してないんじゃないかと思う。
 もうちょっというと、頭のいい人でも、天才でも、そういう内的な自己の内省のフィードバックの感性がないというのは、実は、存在していないんじゃないかと、なんとなく思う。
 "Life Is Real Only Then, When 'I Am'" っていうか。その'I Am'というのは、自己の無を受容・凝視したような意識のあり方なのではないか。